大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認

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大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認

「みさき道」の調査仲間で友人である川上正徳君が、峠の会(福岡)昭和58年発行の古賀敏朗著『くにざかいの碑—藩境石物語』の本で知り、調べていた。本の著者が地元樫山の人へ聞いてもどうしてもわからず、実見できなかった石である。
大村郷村記三重村144頁に「佐賀領境傍爾石之事」として藩境銘のある大塚の石2、その他大塚、建石(竪石)を相当数建てた記録があるのに、地元で存在が確認されていないことは不思議なことであった。著者は茫漠とした「竪石」がどんなものか気になっていたようだ。

川上君が、長崎県立長崎図書館で御境・石塚位置の古地図をデジカメ写真に撮って見当をつけており、平成17年9月と10月の2日間、同行して調査した。現実に何の苦労もなく、偶然に見つかったのは幸運としか言いようがない。
三重崎の突端海岸部の山中に、境大塚が1基完全な姿で残り、あと2基ほど壊れたものがあった。竪石は赤岳頂上(標高118mの三角点)から北側の海岸断崖部に、列をなして完全なのが3基確認された。後日また行くと列の崩れたのが、頂上直下の北側下りに7基ほど確認された。
「竪石」とは単なる平たい少し大きめな自然石を、藩境線の地上に間隔を置いて埋めたものであった。

櫻の首白眼に建てられた銘のある大塚「従是 東北大村領 西南佐嘉領」は、三重リハビリセンター事務局長木浦氏の記憶によって、東樫山町836番地新道宅前の空き地に放置されていたのが判明した。ここは樫山バス終点の奥にあたる。この路地が藩境だったと言われるが不明である。
三重崎の同大塚「従是 西北佐嘉領 東南大村領」は、同じく長崎市三重支所の玄関スロープ植え込みの中に移設されてあった。調査において「灯台もと暗し」はよくある。この石は支所に何の記録がなく、どうしてここにあるのか不明となっている。いきさつを地元でよく調査して、説明板をつけるなり、元の場所に戻した方が良いのではないだろうか。