長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6705 鐘 楼
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:6705 鐘 楼
目録番号:4475 方広寺大鐘(2) 関連作品 目録番号:3093 同(1)、4771 同(3)
〔画像解説〕
石柱敷の上に置かれた方広寺大鐘を南西から北東に望む。男性が両手を広げて大鐘を抱きかかえ、その前に3人の子供が立つ。手前には多数の扇子の骨が干されている。大鐘は豊臣秀頼が方広寺再建に際し慶長19年(1614)の大仏開眼供養時に造営したもので、高さ4.5m、口径2.8m、厚さ28cm、重量約8.3tと言われる。右奥の二層の大仏殿は昭和48年(1973)に焼失した。
■ 確認結果
目録番号:6705「鐘楼」は、明治彩色写真アルバムの1枚。撮影地域:京都とあるが、どの寺か不明なのか説明がない。この寺は、目録番号:4475「方広寺大鐘」などにあるとおり、京都市東山区にある天台宗山門派の寺院「方広寺」であろう。
ここの鐘は重要文化財に指定されており、東大寺・知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。
目録番号:4475「方広寺大鐘」については、HP「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」の2008年5月10日記事に、同じような古写真があり、露天に置かれている事情を次のとおり説明している。
この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2293
方広寺は、豊臣秀吉によって建てられた寺院で、巨大な大仏殿と大仏、広大な境内を誇る大寺院でした。大仏殿は慶長期に失われましたが、天保期にかつての大仏の縮小版と仮殿が建てられ、それは昭和48年に焼失するまで残っていました。
この古写真は、明治初期に撮影された鶏卵紙の貴重な古写真で、中央に写る「国家安康・君臣豊楽」の有名な梵鐘がまだ鐘楼のなかに収められておらず、露天に置かれています。
地震・落雷・火災などで再建があっている。新しい鐘楼が完成して再び中へ収まっている姿が、この明治彩色写真アルバムにある目録番号:6705「鐘楼」の古写真と思われる。
鐘楼の左奥に、昭和48年に焼失した大仏の縮小版仮殿が、撮影の向きは違うが二層で同じ建物として写っている。
現在の方広寺鐘楼の写真は、ココログ”そぞろ歩き:近畿”から。鐘楼は明治期再建したものと同じであることがわかるであろう。