「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」ながさき事始めへの要望

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「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」ながさき事始めへの要望

掲載内容2011年2月現在の最新版「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」が発行されている。
きのう中島川畔の中華料理店頭で内容を見た。長崎市が観光用に置いている。見やすいエリア別マップ付き。どこでも無料配布される。

22頁に「ながさき事始め」がある。掲載されている「事」が、安易な内容ではないだろうか。オーソドックスな次のような「ながさき事始め」とその史跡案内を、次回ガイドブック改版のときには、取り上げてもらいたいと思う。
最近、これに関係する様々な企画展や、体験工房などのニュースが相次いでいる。

そのほか、「我が国最初の気球飛揚の地」などがある。マップ13頁「長崎市健康づくりセンター(三和)」は表示位置が違う。
長崎さるく幕末編や英雄編、長崎まちなか龍馬館では、人物が政治家や実業家に片寄っていた。長崎医学伝習所に貢献した松本良順なども取り上げ、医学史跡等も啓発してほしいと当時から要望していた。

(1)上野彦馬撮影局跡 (日本の写真の開祖) 

上野彦馬は江戸末期、オランダ医師ポンペ・ファン・メーデルフォールトの医学伝習所で舎密学(化学)を学ぶうち、写真術に関する記述を見出して興味を覚え、研究を始めました。しかし、当時の日本では感光材として必要な薬品の入手さえままならず、それに加えて世間の無理解による中傷も激しく、その苦労苦心は一通りではありませんでした。 ちなみに、写真撮影に必要な薬品を精製するために活用した化学の知識は、明治の学制改革まで日本全国で化学の教科書として使われた「舎密局必携」という書籍として結実しました。
さまざまな困難を乗り越え彦馬は、写真技術の習得に取り組み、日本で最初の写真館を長崎に開きました。彦馬の写真技術は評判で、撮影料が現在の価格で1枚につき2、3万円という高価なものだったにも関わらず、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文といった幕末の日本を動かした大物たちや、フランス人文学者ピエール・ロチ、清国提督丁汝昌、ロシア皇太子ニコライ二世といった歴史上の人物も彦馬の写真館を訪れました。そして、それらの写真は歴史的に貴重な資料として残されました。 日本の写真の開祖である上野彦馬は、その生涯を通じて日本の写真術の確立とその発展に尽力しました。   (産業能率大学HPから)

(2)長崎大学病院開院150周年記念碑(小島療養所は日本最初の洋式病院)

幕末の長崎に開かれた医学伝習所で、オランダ海軍軍医ポンペは、医師の心構えをこう説いた。「ひとたび医師という職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もし、それを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」▲患者への献身こそが医師の本分であり、喜びである。医の原点を情熱的に語るポンペの誠実な人柄に、西洋近代医学を学ぶために集まった青年たちは心をうたれ、一層熱心に勉学に励んだという▲ポンペが重んじる献身的態度を自ら、いかんなく発揮して見せたのが、1858年のコレラ騒動のときだ。疫病拡大阻止のためポンペは獅子奮迅の働きをした。連日、患者を身分で分け隔てせずに懸命に治療に当たるポンペの姿は、長崎の人々の信頼と尊敬を集めていく▲そんな長崎の空気に押され、かねてポンペが提言していた西洋式病院の建設を幕府が認めた。61年9月20日に開院した養生所は、124の洋式ベッドを備えたわが国初の近代的病院で、医療と医学教育の拠点となった▲養生所開院を自らの誕生のときと定める長崎大学病院が開院150周年を祝った。わが病院の幕開けが、すなわち、日本の近代医療の幕開けであると誇れるとは、なんと幸せなことだろう▲幕末に、長崎の地で輝き始めた「志」という灯は、これからも永遠に、日本の医療全体を照らし続けるはずである。(信)  (長崎新聞コラム「水や空」2011年9月25日更新から)

(3)新町活版所跡(長崎が生んだ“印刷の父”本木昌造)

県美術館で活版印刷の企画展  2011年12月4日 01:14
長崎から広まった活版印刷の歴史や技術を紹介する企画展「長崎活版巡礼展」が3日、長崎市出島町の県美術館で始まった。日本に初めて活版印刷を持ち込んだ天正遣欧少年使節団ゆかりの資料や、長崎に活版伝習所を設立した“印刷の父”本木昌造の「種字(たねじ)」など約50点を展示している。11日まで、入場無料。

日本の活版印刷は、1590年に天正使節団がイタリアから持ち帰った機械で、現在の南島原市加津佐町で印刷したのが最初とされる。その後、途絶えたが、長崎出身の本木が1855年に再び長崎で活版印刷を始め、日本の印刷文化の基礎を築いた。
漢字や仮名は画数や曲線が多く活字の製作は難しかったが、本木はツゲの木に手彫りした「種字」をもとに「蝋型電胎(ろうがたでんたい)法」という技術で鉛活字の鋳型を作り量産を可能にした。会場には、諏訪神社に保管されていた3300本の種字や蝋型電胎法による活字製作の再現などを展示している。
企画した福岡市のデザイナー中川たくまさん(33)は「長崎は世界に誇れる文化を持つ街。この機会にその良さを知ってほしい」と話している。  (2011/12/04付 西日本新聞朝刊から)

長崎が生んだ“印刷の父”本木昌造
本木昌造は、1824年長崎市新大工町の北島三弥太の四男として生まれます。1834年、阿蘭陀通詞 本木昌左衛門久美の養子となり、23歳に小通詞並になりました。彼は通詞としてまた、航海、造船、製鉄などといった各方面にも活躍の場を広げて いきます。※築町と浜の町に日本最初の鉄橋「くろがね橋」を作ります。
1848年昌造が25歳の時、蘭書植字判および印刷機を通詞仲間と共同購入し、蘭書復刻を行ないます。1851年昌造28歳の時、オランダ活字を手本に独自の流し込み活字を製造しています。1855年に、昌造は官営の活版印刷所の創設を長崎奉行に上申し、活版判摺所を役所内に設けさせ自ら御用掛となります。これが後の出島印刷所。昌造はここでシーボルトの著作などの発行を手がけますが、この頃はまだ木版と流し込み活字の併用で美しい印刷とは呼べない物でした。より美しい印刷を求め、昌造は 1869年アメリカ人宣教師フルベッキの紹介で、上海の聖教書印刷所・美華書館の代表ウイリアム・ガンブルを長崎に迎え、活版伝習所を設立します。昌造はガンブルの指導のもと「電胎法」と呼ばれる高度な活字製造法を修得し、初めて納得のいく和文活字を作り上げる事に成功。その後、昌造は長崎市新町に日本初の民間活版業・新町活版所を創立し、さまざまな印刷を行なっていきます。その後大阪、東京、横浜と支所を設け大きく事業を展開していくことになります。  (長崎県美術館HP 長崎活版巡礼展から)