長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2863 大浦川沿い(2) ほか
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号: 2863 大浦川沿い(2)
〔画像解説〕 超高精細画像
大型アルバムから解かれた1枚である。キャプションにG61.OURA NAGASAKIとあるので、小川の写真の一枚である。大浦川の両岸沿いを川上の高台から撮ったものである。居留地最後の雰囲気を細かに観察できる。右手の大浦14番付近が建て変わり、松ヶ枝の波止(川口左)に明治31年(1898)建設の税関派出所(現長崎市立民俗資料館別館、国指定重要文化財)が見えるから、撮影は30年代の始め。川が狭まる左岸の川上4棟(下り松35甲乙、34甲乙)までが居留地で、人力車が止まっている、英語看板の見える和風家屋は日本人の商店であった。川口の下り松42番は角地で機械のテレシン商会と船具のアダムス商会など多くの商店が入居していた。各商店の構え、街灯、サンパン、屋根、材木置き場、洗濯干し、弁天橋(上流)と松ヶ枝橋(下流)、散見する人物など、拡大すると、細部が見えてくる。中央の松は下り松の地名の由来となった。その左にある妙行寺の建物が鮮明である。
目録番号:2879 大浦川沿い(3)
〔画像解説〕 超高精細画像
一枚ものでA147 AT OURA NAGASAKIと小川一真のキャプションが印字されている。これは目録番号2863(整理番号58-4)と同じ時期に、大浦川沿いをより上流の現北大浦小学校下の斜面から撮影している。この方が少し後である。川口の弁天橋と松ヶ枝橋は明治22年(1889)に架け替えられた木鉄混交のトラスト橋。明治26年(1893)10月に大浦32番Aに新築される孔子廟はまだ見えないので撮影時期は明治20年代中頃。大浦地区の裏側が空洞化している。漆喰が鮮やかな日本家屋の屋根と入母屋造りの洋館の屋根と対照的である。左大屋根の妙行寺の後には、屋根が口の字に繋がったベルビューホテルが見える。さらに左手隅には大浦天主堂の尖塔の先も写っている。海上には石炭燃焼の蒸気エンジンと帆柱の両方を備えた気帆船が多い。対岸にも多数の船が停泊する船溜を確認できるが、その横には三菱長崎造船所の外国人宿舎と、飽の浦および立神の工場群が写し出されている。
目録番号:3794 大浦川沿い(4)
〔画像解説〕
東山手居留地南端の高台から、大浦川右岸の大浦居留地と左岸の下がり松居留地を見たもの。下がり松地区には家並みが整然としている。居留地と日本人地区との関係が分かる写真。大浦川には明治22年に架設された松ヶ枝橋と弁天橋が見えている。3856と同じ。
目録番号:3856 大浦川沿い(5)
〔画像解説〕
東山手居留地南端の高台から、大浦川右岸の大浦居留地と左岸の下がり松居留地を見たもの。下がり松地区には家並みが整然としている。居留地と日本人地区との関係が分かる写真。大浦川には明治22年に架設された松ヶ枝橋と弁天橋が見えている。3794と同じ。
目録番号:6138 大浦川沿い(9)
目録番号:6720 大浦川沿い(10)
■ 確認結果
データベースにある大浦川沿いを撮影した6作品。目録番号: 2863「大浦川沿い(2)」と、目録番号:2879「大浦川沿い(3)」以下5作品は構図が少し違うが、キャプションの画像解説などから、撮影者はすべて「小川一真」となるのではないか。
石橋が左下に写っている。撮影場所は、「川上の高台」や「現北大浦小学校(2007年(平成19年)に、統廃合により閉校)下の斜面から撮影している」などというより、高度がまだあり「ドンの山」あたりからではないだろうか。
この項は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/1881
目録番号:6138「大浦川沿い(9)」と、目録番号:6720「大浦川沿い(10)」は、その後、データーベースに収録された写真と思われる。