大浦川の暗渠下に残るアーチ石橋「大浦橋」
長崎市大浦海岸石橋通り。電停「石橋」の名前の由来になったアーチ石橋が、大浦川の暗渠下に今でも残っている。このことを紹介した資料やHPがほとんどなく、うかつだった。
九州、東京、京都等の石橋巡りを熱中されているHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の制作者N氏から教えてもらった。同氏も友人の話で初めて知られたらしく、長崎へ来られる。
4月17日干潮を見計らって暗渠下へもぐってみた。「大浦橋」と「寄附者 大浦郷林増五郎 村川勝太」の銘柱が横断歩道手前に残っていることは知っていたが、古写真を見ると桁橋のようであり、アーチ石橋は架け替えられてないものと思っていた。
アーチ石橋は、暗渠下に見事に残っていた。
暗渠は現在、橋から上流をスラブ補修工事中である。ライトにアーチが浮かび上がった。幅員4.2m、長さ10.5m。かなり大きな石橋である。上が道路で塞がれているほか、損傷は見あたらない。工事監督の人の話によると、この上流には石橋はない。
銘柱がある横断歩道反対側に最近、さるく博により次の「大浦橋」説明板が設置されていた。
大 浦 橋
石橋バス停前の道路には大浦橋(石橋)が架かっていました。実は今も道路の下を川が流れていて、かつての石橋が残っています。路面の盛り上がっている所がその目印で、親柱は、同バス停横にあります。昔は河口からこの辺りにも小舟が入っていたそうです。大浦橋は当初、木橋だったといわれていますが、明治初年に簡素な石橋となり、明治19年(1886)、地元有力者により、この写真の石橋に架け替えられました。
管理者:長 崎 市
説明板は、あと1つ「大浦川沿いのまち並み」が石橋電停につけられている。古写真の左下隅にアーチの一部がかすかに写っている。
石橋寄付者の7代目にあたる地元の林先生を訪ねた。説明板に「この写真の石橋に架け替えられた」とあるのはまぎらわしい。三角桁は車を通すため後でつけられた。暗渠になったのは、昭和30年頃。暗渠下のほんとうのアーチ石橋がわかる実物写真も添えた方が良いのではないかとの話である。
地元テレビNIBが2006年10月「まちかど探検① 幻の石橋を探せ!」で現地取材しており、ビデオを見せてもらった。先生はブライアントさん一家を暗渠下に案内している。
なお、ぼんでん氏ブログ「ぼんでんの徒然日記」に、次の記事があった。
2007/11/3 「長崎は今日も異国だった〜南山手洋館、港が見える坂〜(通さるく)」
…最初の説明は、現在暗渠となっている大浦橋の説明、「大浦橋」は、石橋電停の名前の由来にもなった橋である。昔は、入り江の末端であった場所である。居留地時代はここを多くの外国人が渡り、東山手方面に向かっていたという。現在、橋はアスファルトでそのまま埋められているという。信号の側にある橋の欄干が当時の名残を残すのみである。…