長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る

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長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)
〔画像解説〕
欄干の柱頭に擬宝珠のついた大手橋から、連合大売出しでにぎわう新大工町商店街を見る。慶長年間(1596〜1615)に大工職人が集まってできた町といわれているが、周辺の人口増加とともにその後は食料品・日用品などを売る町並みとなり、現在に至っている。(提供:長崎電気軌道株式会社)

■ 確認結果
写真集「目で見る 長崎市の100年」は、株式会社郷土出版社から2002年7月に発行されている。監修は越中哲也、岡林隆敏、堺屋修一氏と著名な執筆委員。2009年に発行された「長崎市制施行120周年記念写真集 ふるさと長崎」の粗雑な内容と違い、掲載された古写真と解説は何の問題がない。

57P「大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)」は、長崎の古写真考の前の記事「大手橋」で引用させてもらった。古写真を再掲したが、私の関心は今度は、新大工町大通りの奥に写った「大屋根の建物」(拡大)である。
中島川の石橋を渡り、まっすぐ行くと寺町通りと合い、上の山手に寺がある。諏訪通りなどで良く見る。新大工町大通りでも同じような光景があった。寺だろうか。

新大工町商店街通りを入口から進んでみた。商店街の出口を過ぎないと、今は奥の景色を確認できない。「春徳寺」は北の方にあり、この古写真では通り左側商家の家並み後ろとなって写らないだろう。
新大工町通りの延長となる桜馬場町の通り(シーボルト通り)に入ると、高い石垣の上に広い校庭を持つ長崎市立桜馬場中学校がある。「長崎村庄屋森田家屋敷」の跡地である。
古写真は大正10年頃だから、当時は桜馬場に移転した「長崎県尋常師範学校」がここにあった。大屋根の建物を私は勘違いしていた。師範学校の校舎ではなかった。

後日、satemosatemo2008 様のコメントによる指摘により気付いたが、地図のとおり長崎鳴滝高校の右側上方にある「高林寺」に間違いないだろう。
鳴滝高校の真裏あたりと覚えていて、地図も調べず出かけていた。本堂は近年改築され、屋根の造りを変えた近代的な寺になっている。背景の山並みは、諏訪神社から確認している。(この記事は1月27日修正して記した)
高林寺は、広助さんのHP「丸山歴史散歩」によると次のとおり。明治42年(1909)炉粕町から移転・新築したので、古写真には屋根がまだ新しく写っているのだろう。 

A−221:曹洞宗德光山高林寺(とっこうざん-こうりんじ)
鳴滝1-6-27(長崎村中川郷字松山)
高林寺は正保3年(1646)皓臺寺一庭が禅僧天宗融察と、オランダ通詞の名村、猪俣両氏の援助を受け炉粕町に創建します。一方、上長崎村中川郷に知足庵(当初は栖雲庵)という皓臺寺の末庵があって、明治40年(1907)池田新吉という者が、シャム国王(タイ国)勅願寺サケート寺に安置してあった釈迦如来の銅像をもらい受け、軍艦で長崎に運ばれここに安置します。しかし由緒ある仏像を末庵に納めることに市内寺院から反対が起こり協議会が開かれます。そして当時、移転を検討していた高林寺が手を挙げ、明治42年(1909)知足庵と合併し、この地に高林寺を移し現在に至ります。