長崎の古写真考 目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4683 中島川と阿弥陀橋(3)

目録番号: 341 中島川と阿弥陀橋(1)

目録番号: 989 中島川大手橋(1)
〔画像解説〕
写真中央の木の奥に大手橋、中央に西山水源地裏の山々、右側に健山(たてやま)、左側は金比羅山のすそ野に当たる。写真は桃渓橋の上からの撮影である。大手橋は、馬町と新大工町間に慶安3年(1650)唐通事高一覧(日本名:渤海久兵衛)が架けた長さ13.4m、幅4.7mの階段付き唐風石橋である。大手橋の袂に長崎氏の大手門があったところで、古来堂門橋と呼ばれていたが、明治15年(1882)、これまで個々に呼ばれて不便であったので、呼び名が統一され、大手橋と付けられた。昭和7年(1932)ころ、交通に不便ということで、階段付きの上部を車が通れるように改造された。これまでの大水害でも崩落することもなかったが、昭和57年(1982)の大水害の災害復旧の河川改修工事に伴い、現在の橋の上部は改修されたが、アーチ部分は建設当時のまま残っている。川辺は出来大工町で、トントン葺きの家並みが見え、時代を感じさせる写真である。

■ 確認結果

古写真データベースで「中島川と阿弥陀橋」と条件検索すると、同橋タイトルの(1)から(7)まで7作品が出てくる。その中でも、目録番号:4683「中島川と阿弥陀橋(3)」は、明らかに他の写真の「阿弥陀橋」とは違うような感じがする。
条件検索した関連作品では、横の小画面となり橋の長さが引き伸ばされ、「阿弥陀橋」に似ているが、実際はこの古写真は縦長で、良く見ると石橋の造りが違う。

「阿弥陀橋」の代表作品、目録番号: 341「中島川と阿弥陀橋(1)」と比較してみよう。(3)の方は、橋の高さが川底から高い。川幅が狭くアーチ橋の造りが違い、アーチ間の径間が短い。欄干の数が少ない。左側の親柱に擬宝珠が写る。橋上部の通路部分が水平である。川岸に護岸の通りや人家がまだないことがわかるだろう。

「阿弥陀橋」と違うとすれば、中島川との合流点、二股に左から流れる西山川(堂門川)に架かる「桃渓橋」だが、「桃渓橋」には擬宝珠がない。欄干のある橋上部が水平でなくやや丸い。
「桃渓橋」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1537
目録番号:5163「中島川と一覧橋と光永寺」は、データベース上、目録番号:5162「中島川と桃渓橋(1)」と写真を入れ違い、間違ったタイトルのまま、今でも公開されている。この項はすでに指摘済。

では、もっとも考えられる橋は、桃渓橋の上流に架かる「大手橋」だろう。大手橋の古写真は、目録番号: 989「中島川大手橋(1)」などあるが、桃渓橋の遠くから小さく写され、当時の橋の正確な姿がわからない。「大手橋」は、現在の新大工商店街通り入口に架かる橋である。上部は鉄筋造となって拡幅されているが、下部にはまだ建設当時のアーチ式石橋が残る貴重な橋である。現在の姿から当時の橋を推測するしかない。

擬宝珠がこの橋にはあった。大正10年頃の大手橋から新大工町通りを見た写真があり、擬宝珠が写っている(長崎電気軌道(株)の所蔵写真。写真集「目で見る 長崎市の100年」郷土出版2002年刊57頁に掲載)。橋の改造のため撤去された擬宝珠は、出来大工町の光雲寺入口と途中の階に現存している。
「阿弥陀橋」にも、擬宝珠があったが、橋全体の姿からこの古写真の橋は「阿弥陀橋」ではなく、「大手橋」と考えられるのではないだろうか。そうして見ると、目録番号:4683の作品の橋下に遠く霞む山は、「健山」か西山木場方面の山となる。川下へ降りて、アーチ式石橋を見上げて写した珍しい写真と言える。

目録番号: 989「中島川大手橋(1)」の〔画像解説〕にある「昭和7年(1932)ころ、交通に不便ということで、階段付きの上部を車が通れるように改造された」も確認調査が必要である。日見峠に明治新道が開通するのは明治15年(1882)で、「大手橋」が階段橋であったら、「古橋」と同じくその頃に改造されたと思われる。大正10年頃撮影の大手橋と通りの古写真が証明している。「古橋」や「一の瀬橋」とも言えないし、中島川の石橋を研究する方に判断をお願いしたい。