国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から ( 長崎県 )

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国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から

高橋信一氏(前慶応大学准教授)著「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話二 —真実を求めて—」が2015年6月に渡辺出版から発刊されている。
266〜270頁に「282 長崎軍団病院の写真」として、国立公文書館が所蔵する古写真の考察がある。

私は懇意にしてもらっており、現在の撮影地調査に協力した。私や堺屋氏(長崎の古写真研究家)の調査では、この古写真はトッポ(獨鈷)水横から春徳寺裏門へ登る坂段道の高台あたりから、「移設前の旧長崎原爆病院辺りの片淵の畑地に掛け小屋を建てて仮病舎としたと言われる」仮病舎そのものを撮影していると思われる。現在は住宅が建て込み、古写真とまったく同じ写真を写せない。
背景の諏訪神社、松の森神社の大楠、料亭富貴楼、遠く帆掛山・稲佐山稜線などを合わせると、だいたいこの春徳寺付近から、西方の片淵の仮病舎を撮影しているのは間違いない。

詳しい説明は省くが、要点は「仮病院の場所は新大工町である」との記述とか、上野写真撮影局屋上から撮影したとするのは、正確な事実と違い誤解を与える。古写真がこれを正しく記録している。というのが高橋先生の考察である。
長崎文献社刊「アルバム・長崎百年」などにも、同じ古写真が掲載されているので、主なものを参考に載せる。「続・アルバム長崎百年」から明治15年同地にできた長崎監獄(片渕監獄)の位置も参照。
その後、大戦後の日赤長崎原爆病院は茂里町へ移転。済生会病院がここに建っていたが、長崎市立片淵中学校の高台移転へ伴ない、済生会病院の新病院建物は、中学校跡地側へ移っている。

ところでこの広い平地「片淵の畑地」。いわく因縁のある官有地だった。軍団仮病院となる当時は、農民の畑地に一時払い下げられていたようだが、西南戦争拡大に伴いそれをまた買い上げて、長崎軍団片渕仮病院ができたというのが真相のようである。
地元片渕地区に住む私の知人、長崎楽会中尾氏がおもしろい研究をしてくれたので、次の記事「長崎軍団片渕仮病院(長崎歴史文化博物館所蔵の写真には官軍臨時病院と記載))の位置についての私見」によって紹介する。