長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:5878 対馬(6)
対馬関連作品は、目録番号:5867(1)、5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)がある。
■ 確認結果
目録番号:5878「対馬(6)」は、長崎県対馬関連の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影している。関連写真は、近辺の集落や海岸であろう。
対馬の「都々智神社」は、次のHP参照。現在の写真も同HPから。
玄松子さんが歩いた各地の神社の記憶 http://www.genbu.net/data/tusima/tututi_title.htm
この作品は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、画像解説は次のとおり。186〜187頁に詳しい解説がある。
82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3
1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊しました。この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の大島の都々智神社と軍艦の写真です (写真82)。場所は湾の入り口付近で、対馬を撮影した写真としては最古のものでしょう。長崎大学にはこのき撮影された湾内の写真がほかに5枚残されています。
島の左側に鳥居が立ち、右に拝殿が見えます。この神社につながる参道は、満潮のときには海に沈みます。対馬では本宮が山頂や海岸にあり、里宮が里にあるのですが、この神社は郷崎大明神の里宮になるようです。
「防人の島」として知られる国境の島である対馬は、外国の脅威にさらされていました。
1861年には、ロシア海軍中尉二コライ・ビリレフ率いる軍艦ポサードニク号がこの湾の占拠を始め、兵舎、工場、練兵場をつくり、半年ほど居すわって島民を脅かしました。「対馬事件」と呼ばれる幕末の外国人による無断上陸事件で、幕府はこれを退去させるのに苦労しました。
1900年には、日露戦争に備えて小型の艦艇を通すため陸地を掘削して、万関(まんぜき)と呼ばれる水路がつくられました。この水路を通って進撃した水雷艇が日本海海戦で日本に勝利をもたらしました。