星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか

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星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか

この項は、「長崎の古写真考」において、星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える 2007年7月の記事で、一部にすでにふれていた。(写真1、2)
https://misakimichi.com/archives/141
詳しくは、本会の研究レポート第3集平成19年4月発行に、関係資料とも154〜167頁に収録しているので参照。次の文は、ブログ記事では省略していた。

…フランス隊の金比羅山における観測の双極となる、アメリカ隊の星取山観測地点の重要な「囲い石」などが、かつてあったのに、時代の混乱等のためなど無造作に壊されてきた。
今回の説明板は「さるく博」期間中の仮設と思われるが、この際、見学者が納得できるような恒久的なものを造るため、NTTがさらに市に協力し、研究協力・敷地提供・木立伐採・維持管理など、特別な配慮をしていただけないかと感じる。

アメリカ隊は金星観測のほか、天文観測により長崎と東京との経度差観測を行った。電測場所は特定できないが、松ヶ枝にあった当時のベルビューホテル(現在は長崎全日空ホテルグラバーヒル、前東急ホテル)内であることは確かである。
1997年、長崎県測量設計業協会が創立20周年に当たり設置した「我が国初の経緯度原点確定の地」の碑は、諸般の事情が重なりあって金比羅山に設置された。今となって碑を移設することは、経費がかかるので、なんともできないと聞いている。
世界の金星観測史上における長崎星取山の史跡の重要さも、もっと全体が理解すべきではないだろうか。

(2)平成19年2月の調査報告
最近、川上氏と会ったとき、市博物館は、星取山の観測地点は無線中継所内の「藤棚のあるところ」と以前からしているとはじめて聞いた。これまでの文章は、昨年行ったきりで書いていたから、再確認と写真撮影があり、2月24日星取山へ出かけた。
敷地はフェンスに囲まれ、穴にレンズを差し込んで撮った写真が左である。芝の中央に何か碑があった。これが観測碑だろうか。そうするとここは中継所入口のすぐ右側で、フェンスの外囲いを代え開放しても支障がない場所と思われる。
ついでに辺りを見てまわった。この場所の下手の林内に古い石垣が一部残っていて、古写真の石垣とも似ている。雨水が流れるところには、廃材とともに古い煉瓦片が2個あった。
以上は、まだはっきり確認していない感想だった。そういった場所ということを紹介してみた。
写真は「長崎無線中継所内の藤棚がある場所 何か碑が見える」と、「写真大きな木の後ろに古い石垣が一部残っている」の2枚を掲載した。(写真3、4)

2012年の今年2月になって、宮さんが星取墓地公園内の陸軍省要塞標の標石を訪ねた。ついでに星取山無線中継所まで伐採帯を歩き、何かの土台跡だろうと写真を写してきた。(写真5)
これは丸い石垣のように見えるので、以前の調査でそんなものはなかったはずと不思議に思い、2月11日川上氏と星取山の同地を現地再確認した。伐採した木が枯れこづみ方によって、写真写りがそう見えただけのようである。石垣はなかった。
研究レポートで記しているが、星取山一帯は戦時中、高射砲陣地があり、昭和30年代はクレー射撃場があったと、地元自治会長から聞いている。伐採帯の左右や星取墓地公園付近の林間を探すと、いたるところに石垣、水槽タンク、茶碗片などその建物跡はまだ残っている。(写真6、7)

関係資料とした中、「金星太陽面経過観測記念碑二十周年記念誌」1994年12月同記念会(神奈川県厚木市)発行 武石信之氏稿「長崎星取山のアメリカ隊観測地跡」21〜23頁には、次のような研究もある。

現在、大平山(星取山)山頂には、「長崎統制無線中継所」があってマイクロ波中継のアンテナ用鉄塔2基を備えた面積約6000㎡の施設がある(昭和25年に開設、そこの地番は長崎市上戸町455、1/2500『長崎市基本図』によって、数値(2)の地点を探すと、上記「無線中継所」の構内ではなくて、同所正門から南へ31メートルほどの傾斜地になる。現在その地点付近は、草木が繁茂していて、観測器械の土台石などを見つけることは、容易ではない。(地点図は最後)
この地点は、図1に見る、周囲の状況とは一致しない点もあるが、日面経過を、終わりまで観測するのに必要な、東西方向の視界は良好である。戦時中、この付近に砲台が設けられたというので、それとの関連も調査する必要がある。…

現地写真は重複するが、本年2月11日の川上氏との星取山現地再調査で、特に確認したのは、「無線中継所」構内に立ち入れないので、正門南の方の傾斜地である。
現在となって、もはや観測器械の土台石など見つかろうはずがない。私たちが今回確認したのは、傾斜地で土管、防空壕などだった。(写真8、9)
中継所のフェンス内では、(良い方へ解釈して)古写真にある観測望遠鏡を据えたか?脚元のコンクリート塊らしいのは残っていた。(写真10)
写真2の「藤棚のあるところ」の一角は、正門の中の右手の方である。碑は何なのだろうか。このフェンス外の下あたりに低い石垣が少し残っている。(写真11、12)

(追 記  2012年2月22日)
藤棚のところにあった碑は、ほしなべさんからコメントあり、次の記事を参照。1990年星取在勤者一同が建立した「惜別の碑」で、金星観測とは関係ない碑とわかった。ほしなべさんが撮影していた実物写真を末尾に追加した。  http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/36086417.html