長崎の古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3)

目録番号:1007 飽の浦からの汽船と南山手(2)
〔画像解説〕
長崎の西岸飽の浦辺りから、汽船越しに大浦居留地と東山手居留地を撮影した写真である。明治5年(1872)2月16日付の”The Far East”に掲載された写真である。撮影時期が特定できる重要な写真である。煙を吐く汽船の船首付近が下り松居留地で舳先付近の2階建ての建物が下り松42番D、後の香港上海銀行の場所である。煙突の向こうがイギリス領事館、そこから左の山手が東山手地区である。山腹に教会の建物が見えているが、これは、元治元年(1864)に建設された大浦天主堂に先立ち、文久2年(1862)に建設されたイギリス国教会の教会である。現在の海星高校に体育館の下に当たり、プレートがはめ込まれている。その右下に洋館が見えるが、この建物は東山手12番館である。左隅の海岸線は大浦居留地の建物である。明治元年(1868)末、新地が居留地に編入され、明治2年(1869)に3橋が架設され、長崎の外国人居留地が完成した時期の写真である。

■ 確認結果

目録番号:6260「飽の浦からの汽船と南山手(3)」は、ボードインコレクションにある作品。昨年6月以降、データベースに追加公開されたと思われる。最近、初めて見た。
一見、撮影場所は「飽の浦から」のように見えるが、そうではない。写真の右側、南山手居留地の上は「鍋冠山」、奥に霞んでいるのは八郎岳へ続く尾根の「熊ヶ峰」である。

先日、朝日新聞2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”を、ブログ記事にしていて思い出した。パノラマとした3枚の古写真の今度は右側、1枚目は目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」。
飽の浦恵美須神社近く、松の大木がある岩場から長崎港の南山手方面を写している。飽の浦恵美須神社近くまで来ると、もう鍋冠山の山頂と奥の熊ヶ峰の稜線は合わない。「戸町岳」まで見えてくる。

したがって、目録番号:6260「飽の浦からの汽船と南山手(3)」の撮影場所は、「飽の浦から」とはならない。背景の山の重なりが合う当時の「丸尾山」(丸尾山を削り取って、海岸を埋め立てできたのが現丸尾町)の少し高台から、先端の海岸越しに、対岸の南山手方面に停泊した船を写したのではないだろうか。ホテルヴェスナーがあった稲佐崎からでは合わない。

明治25年の丸尾山地形図は、「稲佐風土記」著松竹先生の作成地図を掲げた。現在の写真は、丸尾町の十八銀行稲佐支店と長崎市消防局丸尾出張所の間にある菱重パーキング屋上から写した。古写真の撮影場所と思われる近くとなり、南山手を見通しできる所は今ではこのあたりである。

次の目録番号:1007「飽の浦からの汽船と南山手(2)」は、関連作品で参考のため。
この古写真は、大浦や東山手居留地が正面に近く写り、飽の浦の浜から右端は身投崎(長崎古写真集 居留地編の137頁解説)か、または身投崎の浜から、画像解説どおり撮影されたものに間違いないように思われる。
現在の写真は、三菱重工業(株)長崎造船所は入構禁止なので、本館ビルがある岩瀬道バス停上の高台の道から写した。目録番号: 987 「飽の浦からの汽船と南山手(1)」の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1590