ししとき川の下水路・同支線の建設経過  「長崎水道百年史」から  

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ししとき川の下水路・同支線の建設経過  「長崎水道百年史」から

長崎市の市街地を流れる石敷の水路「ししとき川の下水路・同支線」を前項において、社団法人九州建設弘済会HP「土木遺産 in九州」長崎県の中から見た。
ところで、この建設経過が同HPに詳しく説明されていない。資料が「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年発行44〜46頁にあったので、要点を抜粋する。

写真は「ししとき川」川端通りと「えごばた」説明板。後は桜町地獄川及び最近、長崎港口対岸の西泊町で見た石敷下水路と近くの井戸。

第3章 近代水道の建設  第1節 水道会社の設立計画

猛威を振うコレラ
…特に、1885年(明治18)8月、浪ノ平町から発生したコレラの患者は記録にあるものだけでも833人、そのうち死亡者617人を数えた。しかも、この数は長崎区だけで隣接市町村にもそれ以上の患者を出し、さらに全国に広がっていった。
当時の新聞には、毎日コレラの患者数や予防対策の記事で埋められていた。この時の長崎の様相は、各家庭では表戸を堅く閉ざし、道行く人も絶え、官庁、学校も廃庁、廃校同然で、それまで頻繁に出入りしていた外国船も長崎を避けるようになり、長崎が受けた経済的打撃は大きかった。
一方、居留地の外国人は衛生設備の改善を訴え「それでなければ不安で居留することはできない」と外務省に強く要望した。…
着任早々の日下県令(日下義雄。明治19年7月19日付県令改め県知事となる)は、衛生設備の改善を痛切に感じ、これらの改良が急務であると考えた。手始めにすでに着工されていた6本の市街下水幹線(素掘り)の工事に改良の命令を下した。…

まず下水道を改善
1号線から6号線は、1886年(明治19)3月11日に入札が行われた。…ところが「この下水幹線工事では汚水が浸透し飲料水が汚染される恐れがある」として日下県令は板石、瓦材で三面張りとし、天川(しっくいのこと)で固める改良工事を命じた。同年5月1日着工、8月30日完成。…

七万五百mの中小溝を整備
翌1887年(明治20)は、残る中、小溝延長17里34町2尺(約7万473m)の改良工事を区に命じ、同年4月着工、9月末完成した。…
工事は、中溝については人造石と切石、小溝は板石、瓦等の三面張りで、天川で固める工法であった。…
この工事の完成によって、区内の隅々まで隈なく溝という溝は、改良されたものと思われる。溝の完成によって、汚水が井戸に浸透するのを防ぎ幾分かは改善されたが、その反面井戸の水量が減少して大騒ぎとなった。…