立山役所専用の狭田井水源と狭田水樋土管  長崎市水道資料館に展示 ( 長崎県 )

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立山役所専用の狭田井水源と狭田水樋土管  長崎市水道資料館に展示

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階に「長崎市水道資料館」があり、狭田水樋土管を倉田水樋の木管や支管用土管とともに展示している。
この土管は約37年ほど前、立山公園入口から昔の道を広げて車道を造った際、古い土管が出土したという。
本ブログ次も参照。  立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉 長崎市西山1丁目 (倉田水樋は別項)
https://misakimichi.com/archives/1233

狭田井 せばた
長崎市 <立山役所専用水樋?> 湧水井 延宝2(1674) WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7 保存状態良好 長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)の水源?/水源は背畠(狭田)山とされるが、現存する「狭田井」との関連がどの程度正しいのかは不明 1 C

立山役所専用水樋の土管 たてやま
長崎市 長崎市水道資料館<立山役所への給水施設> 土管(上水道) 寛政8(1796)以降? WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7/館内展示解説 長崎市水道資料館に展示/当初は竹樋だったが、いつの時点からか土管が使われるようになった(ここでは、寛政8に竹樋から土管に布設替えされたとの説を採択) 長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)/水源は背畠山/享保2(1717)には椿原の水源から長1400mの水樋を引く拡張工事が倉田源次兵衛常政により施工/宝暦11(1761)には長600mの支樋、文化7(1810)には長730mの水樋、万延元(1860)には長710mの水樋が完成 4 A

丹羽漢吉氏編「長崎市水道九十年の歩み」長崎市水道局昭和57年刊の特集7頁による説明は、次のとおり。

倉田水立山水系  立山役所専用水樋

立山役所(奉行官宅)は、倉田水樋が完成した延宝元年(1673)に、外浦町にあった奉行所内東西両屋敷の内、東屋敷が分離移転したものであるが、標高の関係があって、倉田水樋の水は引けなかった。
そこで翌延宝2年(1674)奉行牛込忠左衛門は倉田次郎右衛門に命じ、立山役所専用水樋を架設させた。
次郎右衛門は西山郷背畑(狭田)山に水源を求め、水道樋(延長約1,420mという)をもって、立山役所に水を引いた。しわゆる倉田水立山水系とでも呼ぶべきものの始まりである。
これによって次郎右衛門は、水樋役に任命され、本五島町乙名(寛文11年1671任命)とを兼ねることとなった。
一説に、狭田水を立山役所に引いたのは寛政8年(1796)とし、井戸所有者に年銀700目を給したという。
次いで、享保2年(1717)水樋役倉田(4代)源次兵衛常政は、奉行石河土佐守の命により西山郷椿原の水源から、水樋(約1,400mという)をもって、立山役所へ水を引いた。倉田水立山水系の第1次拡張事業である。…

(2015年6月30日 追 記)
入江氏から教示いただいた。国立公文書館所蔵「肥之前州長崎図(ひのぜんしゅうながさきず)」森幸安が寛延から宝暦(1748-63)にかけて書写、収集した地図類の、長崎奉行所岩原御目附屋敷の上のところに、後方に「せばた山」とあり、井戸の名は書かれていないが、「此水長崎第一ノ水トス 龍ノ口」と書かれているようなので、絵図を参考に追加する。