月別アーカイブ: 2015年6月

ツル掛石鍋製作所・跡  西海市平山郷ツル掛 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

ツル掛石鍋製作所・跡  西海市平山郷ツル掛

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。

ツル掛第二石鍋製作所・跡 つるかけ
西海市 平山郷ツル掛 石鍋製作場 平安末期〜鎌倉初期 東 貴之 高20-30m、幅5-10m、奥行100m以上の規模をもつクレバス状の遺跡 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→最大規模の石鍋製作遺跡 2 A

国指定史跡ホゲット石鍋製作遺跡などと同じく、「西彼杵半島の山中では、…最大規模の石鍋製作遺跡 2 A」とあり、昨年から現地へ出かけ調査を進めているが、長崎県教育庁学芸文化課・西海市教育委員会などに尋ねても、正確な場所がわからず実態を把握していない。
長崎県教育庁学芸文化課サイト「長崎県遺跡情報システム」による詳細と所在地図(別図)は、次のとおり。

■ ツル掛第1遺跡
遺跡名称 : ツル掛第1遺跡(つるかけだいいちいせき)
市町村名 : 西海市
種別 : その他の生産遺跡(石鍋製作跡)  時代 : 古代/中世  立地 : 山地

■ ツル掛第2遺跡
遺跡名称 : ツル掛第2遺跡(つるかけだいにいせき)
市町村名 : 西海市
種別 : その他の生産遺跡(石鍋製作跡)  時代 : 中世  立地 : 山地

さて、東 貴之氏(長崎石鍋記録会長)の記録である。遺産サイトの 「高20-30m、幅5-10m、奥行100m以上の規模をもつクレバス状の遺跡 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所」とは、同会の石鍋橋「この橋は?(ホームページ版)」後段に表れる。
http://www2.tvs12.jp/~m-hide/screen/008_konohashi.pdf#search=’%E7%9F%B3%E9%8D%8B%E6%A9%8B’ 【引用・参考文献】とした、石橋忠治氏 2007「八人ヶ岳における石鍋製作所跡」『西海考古』第7号 西海考古同人会 など確認しても、肝心な「ツル掛第2遺跡」のことはまったく紹介されていない。

クレパス状遺跡がある「ツル掛第1遺跡」は、八人ヶ岳山頂近くの駐車場へ行く車道途中の「鯖くされ岩」少し先から、右手のロープを張った右の農道へ入る。奥に梅林の廃ビニールハウスがあり、この端から左手の雑木林内高台へ登る。石鍋未成品のほとんどが剥ぎ取られたか、昔、集落にローセキ工場があったとかの話で、滑らかなクレパス状壁面が広く残っていた。現地遺跡の状況は、私が2014年12月に2回出かけて撮影した写真のとおり。記録数値はここではややオーバーなようにも感じる。
写真18枚目以降が「ツル掛第2遺跡」。集落の人家上で大カーブの車道や墓地となり荒れている。残っている岩面からはクレパス状とは考えられない。近くの人家の庭石にされた石鍋がある。

「ツル掛第2遺跡」か「ツル掛第1遺跡」か、単純な表記間違いと思われるが、東氏は転出されたようで連絡が取れない。長崎石鍋記録会関係者は、個人の論文だからと調査に前向きでないため、これ以上の確認がむつかしい。
長崎県遺産リストの未画像案件は、私が保留していたのでこれ1つのみ残った。一番良いのはこのブログ記事を参考に、長崎石鍋記録会が正確な現地再調査を行い、撮影画像を遺産サイトに提供し、ホームページ版を修正してもらうことだろう。遺跡場所間違いが私にあるかも知れない。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり修正し更新された。

ツル掛石鍋製作所・跡 つるかけ
西海市 平山郷ツル掛 石鍋製作場 平安末期〜鎌倉初期 WEB(みさき道人) 奥行数10mのクレバス状の遺跡 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→本遺構は中規模/第一・第二の2ヶ所があるとの報告もあるが、現在確認できるのは1ヶ所 2 B

津波よけの石垣  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

津波よけの石垣  長崎市福田本町

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊44〜47頁による説明は次のとおり。
本ブログ次を参照。 福田の散策(3) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1671

(3) 事代主神社祠と宮林
此れから海浜防波堤に沿いながら千本松原の方へ歩くと、道中、事代主神社祠があります。そして米田歯科研究所手前辺りに、頃は寛永12年(1635)、中野平五左衛門が天満宮を再興しました。しかし当時、福田地方は津波が度々あり、後難を恐れて天和元年(1681)徳川五代将軍綱吉の時代に現在の高台に移しました。跡地は今日、住宅が立ち並び僅かな樫、椿の巨木が当時の区域として残るのみです。

(4) 津波よけの石垣
自然石を1〜2m積み上げた石垣が所々残っています。これは天和元年(1681)以前に津波があり、度重なる津波に後難を恐れた住民が、宮林より海岸沿いに長々と石垣を築いたものです。

さて、この歴史散歩「(4)津波よけの石垣」である。福田バス停近くに「福田史蹟案内図」があり、(4)の場所を訪ねた。「津波除けの石垣」というのは、全国でも和歌山県に3ケ所、大分県に1ケ所以外、今のところ把握されていないくらい貴重な遺構となるらしい。
事代主神社祠後ろの宮林跡近くで、私が見た石垣の現況は、写真のとおり。この辺りは住宅地となり、石垣はだいぶん壊されているが、ここの畑地に幅2m、L字に曲がって長さ50mくらい、高さ1〜2mほどの古い石垣が残っていた。多分この石垣のことではないだろうか。
遺産サイトへ画像で報告したところ、次のような返答があった。

長崎歴史文化博物館から回答がありましたが、福田地区に関しては資料を所蔵していないとのことで、期待した情報はありませんでした。
『日本被害地震総覧』より、長崎周辺で、下記の地震があったことが分かりました。
・1657年1月3日(明暦2年11月19日) 夜 長崎
家の接目が口を開き、柱および壁が倒れたという。
・1725年11月8〜9日(享保10年10月4〜5日) 肥前・長崎 M6
9月26日に80回余の地震を感じた。
大分有感。この両日は地震を強く諸所破損多し。
平戸でも破損多し。天草・大分有感。
『出島日記』よるとこの地震は継続的に翌年の8月30日までつづく。
この年11月25日06時ころ強震、出島の建物はすべて小損。大村では感じなかった。
翌年1月13日5時ころの地震で被害かなり。
テントに暮らす。中国人居留地破壊、また長崎市中にも被害。
『出島日記』により、被害が少し分かるようになった。
津波除けは、24年も前なので、関係があるとはちょっと言い難いかもしれませんね。
津波除けが90度に曲がっていると、そこに波が集中して危険です。津波除けの堤防は直線状に造られるはずです。

岩永氏が参考資料としたのは「福田の旧跡(福田公民館)」。「福田村郷土史」は宮本瑞穂氏や林純夫氏著のがあるが、林氏のでは記述を見出せない。正確な文献や現地調査は、地元にお願いしたい。
福田は外洋に面し、地形的な高波、冬場の荒波や台風期には上陸地点となることがある。今行ってもこの付近だけ防波堤がさらに嵩上げされていた。

平成21年4月学さるく「神の島から福田まで」講師江越弘人氏の作成資料は、次のように記している。
15 津波よけの石垣
福田は、しばしば津波(恐らく高波であろう)に襲われ、福田本町の辺りは水に浸かった。そのために津波よけの石垣を築いていたが、今でもその跡が所々に残っている。
長崎文献社平成10年刊「長崎町人誌 第六巻」中の”新編 長崎名勝シリーズ”福田地区の天満神社の項
257〜258頁に次の記述があった。わざわざ「海嘯(*高波)」と注釈がある。これが正しいのだろう。
L字状に築かれたのは、当時の集落の端がこの辺りまでだったためと思われる。

天満神社  旧福田村の鎮守で、福田本町字宮の脇に鎮座する。創立は詳らかではないが、大村純忠時代のキリスト教徒による寺社破却以前から祭られていた。寛永12年(1635)8月中野平五左衛門茂明が再興。そのころ田子島にあったが、天和元年(1681)夢の神託を蒙り、現在地に勧請。…
夢の神託のこと  ある夜海嘯(*高波)あり、当地佐々木某神託を蒙る。即ち「海嘯あり自分は今流失の危険にさらさる海水すでに胸に達す」と、佐々木某奇異の思ひをなせしがまさかとの疑念を抱きて寝に就く再度神託ありしも意に留めず三度神託を蒙りただ事ならずと思い衣を改めて出ずれば夢の如し、直ちに海水に浸して社殿に至れば神体正に流失の危機にあり直に神体を奉持し自宅に安置せり、海嘯悉く引きて後再度社殿に奉遷せんと考えたるも 後難を患へ現社地内に勧請せりといふ 旧社地を天満宮元屋敷と称し附近の林を「宮林」と称せり。(『福田村郷土史』より)

「かいしょう 海嘯」 (広辞苑第2版から)
(津波に当てるのは誤)満潮の際に遠浅の海岸、特に三角形状の開いた河口部に起る高い波。中国の銭塘江、南米のアマゾンなどに顕著。
「かいしょう 海嘯」 (旺文社国語辞典から)
(「嘯」は、うなる意)遠浅の海岸や三角形状の河口などで、満潮時に逆流する海水が、狭い河口の抵抗によって壁状の高い波となる現象。また、その高波。

なお、サイト「近世以前の土木・産業遺産」リストへの登載は、次の見解があり保留となった。

「海嘯」という用語は、江戸時代には、各種の要因により海水が高く押し寄せる現象すべてを指していましたから、現代の用語の海嘯とは違います。しかし、各種の要因の中には、地震による津波だけでなく、高潮も、台風による高波も含まれます。
問題は、ここからです。天和元(1681)年に夢を見て、現在地に勧進とあります。ということは、勧進はそれ以後となります。これを信じれば、津波の場合、宝永地震(1707)によるものとなります。もちろん、高潮、高波については年代は特定できません。
一方、福田天満神社の「棟札には寛永年間(一六二四〜一六四四年)の再興とある」との記述も見つけました。棟札は建物に付属するものですから、もし、「現在地に勧進」されたとするのが正しいのであれば、棟札は18世紀の年代が書いてあるはずです。

棟札が、「寛永12年(1635)8月中野平五左衛門茂明が再興」の数値と同じと言うことは、移転はなく、現在の位置に最初から建てられていたことを意味します。そのくらい、棟札の持つ意味は重いのです。もちろん、この棟札の情報そのものが間違っている可能性もあります。
しかし、もし正しいとすれば、「夢の神託」そのものが作り話ということになり、波除石垣も雲散霧消してしまいます。形態が、前に申し上げたように、波除としてはあり得ないことも、それを裏付けているように思います。
一方、松林の方は、宝永地震(1707)を受けて造られたと考えれば、元文元(1736)の築造も合理性があります。

田子島台場跡  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

田子島台場跡  長崎市福田本町

平成21年4月学さるく「神の島から福田まで」講師江越弘人氏の作成資料による説明は、次のとおり。
福田バス停から福田中学校へ向かう。グランド側の市道沿いに史跡説明板が千本松原とともにある。
本ブログ次も参照。  福田の散策(4) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1671

田子島台場跡
嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した一月後の7月に、ロシアのプチャーチンが軍艦4隻で長崎に来航し、通商を求めた。大村藩では翌年安政2年(1854)に長崎出入の枢要の地点である千本松原の田子島に4つの台場を築いた。また、3年後には改築して台場を増強したが、その概要は次のとおりであった(大村郷村記)。
一の台場  18ポンド砲1門、12ポンド砲1門、1貫目砲1挺  計3門
二の台場  12ポンド砲2門、1貫目砲1挺  計3門
三の台場  12ポンド砲1門、1貫目砲1挺、5百目砲1挺  計3門
四の台場  12ポンド砲1門、1貫目砲1挺、7百目砲1挺  計3門
硝煙蔵1棟、武具蔵2棟、番手小屋1棟、硝煙小出蔵4ヶ所

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータに、次のとおり登載された。

田子島台場・跡 たごしま
長崎市 台場(大村台場) (一)18ポンド砲1,12ポンド砲1(二)12ポンド砲2(三)12ポンド砲1(四)12ポンド砲1 安政2(1855) WEB(みさき道人) 石塁が残る(総延長約400m) 大村藩が長崎出入の枢要の地点である千本松原の田子島に築いた4つの台場の総称(一の台場〜四の台場) 3 B

福田の千本松原  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

福田の千本松原  長崎市福田本町

林 純夫著「福田村郷土史」平成12年発行の629〜630頁による説明は、次のとおり。福田バス停から福田中学校へ向かう。グランド側の市道沿いに史跡説明板が田子島台場跡とともにある。本ブログ次も参照。
福田の散策(3) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1670
大正十一年頃のガラス写真 095ほか 福田千本松原
https://misakimichi.com/archives/3670
後ろの写真は、千本松原の前面海岸を埋め立てた海の駅「長崎サンセットマリーナ」の風景。 

三、千本松原

福田の千本松原については、「福田長兵衛の墓」でも述べましたとおり、24代福田長兵衛兼明が疱瘡で死亡する前年の元文元年(1736年)、その兼明が福田大番所加番中において、津波よけとして田子島から崎山までの海岸沿いに多くの松を植えたことからその名が付けられたと伝えられています。
かつては大人が数人で手を回す程の大松もあったそうですが、その松も虫食いなどで次第に枯れて、福田本町の田尻正年氏などによれば、昭和19年頃にはほぼ全滅状態だったと言うことです。
現在、千本松原に僅かに残る松は、由緒ある史跡でもあったことを考慮し、昭和24年昭和天皇が長崎御巡幸に際し、長崎県に対し「松の苗木100本分」の御下賜があったうちから、特にそのうちの50本分を福田村に賜り、松の苗木を千本松原に植樹したものであるようです。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータに、次のとおり登載された。

福田の千本松原 ふくだ
長崎市 海岸防潮林 長約1.4㎞(当初) 元文元(1736) WEB(みさき道人) 植樹後120年の安政4(1857)には162本、昭和5には80数本、昭和25にすべて枯れ、補植の松も少ない 福田の地頭・福田長兵衛兼明が津波の波除けとして田子島〜崎山まで植樹したとされる/宝永地震(1707)による津波被害を受けたものと推測できる/津波除けの防潮林は、現在判明している限り、他には和歌山県にしか存在しない 4 A

長崎の古写真考 明治の長崎撮影紀行 16P 神の島海岸からの高鉾島 ほか ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 明治の長崎撮影紀行 16P 神の島海岸からの高鉾島 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「明治の長崎 撮影紀行」 長崎文献社 2014年12月刊

16P 神の島海岸からの高鉾島  (目録番号:3874)
…島の左手に遠くみえている山は唐八景だろう。多くの写真家が登った大平山(星取山)のすぐ近くで、長崎の街を見下ろすいい展望台である。

17P 小瀬戸からの高鉾島  (目録番号:5241)
当時の神の島は、陸つづきでなく、ほんとうに島だった。この写真(5241)はその対岸になる小瀬戸の大悲寺の高台あたりから高鉾島を眺めている。高鉾島の右手後方へみえているのは香焼だろう。…

87P 茂木の町並み  掲載略 (目録番号:1000)
…当時の海岸線が今は国道34号線になっている。のどかな茂木の街の全景をこの寺の背後の丘から見通すことができたのである。

■ 確認結果

森 望氏(前長崎大学附属図書館長)著「明治の長崎 撮影紀行」が、長崎文献社から2014年12月発行されている。脳神経解剖学者の著者が科学的手法で古写真の謎を解く。近来にない本格研究の古写真集であるが、内容において私が直観的に疑問とした作品を取り上げる。
第2版をだすような状況になれば、そのときに改訂しますとのことである。

16P 神の島海岸からの高鉾島 (目録番号:3874)
「島の左手に遠くみえている山は「唐八景」だろう」は、具体的にどの山を指すかわからないが、中央左奥の三角形の高い山は、これこそ「大平山(星取山)」である。
現在の星取山山頂には、NTT長崎無線中継所がある。大きなアンテナ塔数本が建つので確認できる。
1昨日、写真3のとおり星取山の拡大写真を写してきたので、確認のため載せる。「唐八景」はその後ろの低い山で、写真には写らない。星取山右端に少しは低い稜線として写るくらいだろう。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号:3809 高鉾島(16) ほか
https://misakimichi.com/archives/1687

17P 小瀬戸からの高鉾島 (目録番号:5241)
「神の島は、陸つづきでなく、ほんとうに島だった。この写真(5241)はその対岸になる小瀬戸の大悲寺の高台あたりから高鉾島を眺めている。」
撮影地は、「小瀬戸の大悲寺の高台あたりから」てはなく、視点が低くこのように高鉾島や神ノ島が見えるのは、「神崎鼻の台場」からであろう。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号:3812 高鉾島(19) ほか
https://misakimichi.com/archives/1552

87P 茂木の町並み (目録番号:1000)
「当時の海岸線が今は国道34号線になっている。」は、何度も言うが「県道34号」が正しい。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号: 343 茂木(2) ほか
https://misakimichi.com/archives/1513
https://misakimichi.com/archives/2147

92〜97P 小浜・雲仙7点
撮影地の現在の写真がある。まず間違いないと思うが、少し、しっくりしないところもある。私もそのうち現地へ出かけて確認したい。

「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真の場所は? ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真の場所は?

平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)479頁に、「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真があったので、現地確認に行った。次頁まで良く読めば良かったのに、これは神ノ島公園から下ったところから撮影した四郎ケ島の渡り口である。
文献には「神ノ島」とあるが、「神ノ島」(四郎ケ島を含む)と伊王島の台場築造話のようだ。

左奥が神ノ島から四郎ケ島へ佐賀藩が埋め立て築造した海道で、現在の神ノ島一周市道ではない。電柱が対岸まで立っているのは、四郎ケ島の沖波止建設工事当時の写真だろう。今は電柱は撤去されている。右端の一周市道は海側に拡幅され、車道中央に立たないと、これと同じような写真は写せなかった。

平幸治氏からさっそく教示いただいた。史料のモノクロは『佐賀藩海軍史』からのもの。絵図には、神ノ島側に「崎雲岬?台場」と「崎雲山上台場」、四郎ケ島側に「四郎島台場」と「小島台場」が描かれている。全体を総称して「神ノ島台場」となる。
両方が入るようにとアングルしたつもりでしたとのことであるが、1枚に写すのは、私にもむつかしかった。

(2015年6月23日 追 記)
前伊能忠敬研究室入江氏から、神ノ島の台場は「兜崎(カブトザキと読むのか、地元の人の言うドンクが正しいのか不明)」「飛渡(神ノ島工業団地の造成時に削られて消滅し、危険な崖になっている)」「崎雲浜手」「崎雲山上」の台場が在り、他に「四郎ヶ島」「小島」が在りましたという教示があった。
嘉永5年の台場計画の場所として、『佐賀藩銃砲沿革史』160頁から、台場地図を載せる。

御 船 手  長崎市深堀町1丁目 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

御 船 手  長崎市深堀町1丁目

この項は、本ブログ次を参照。場所は深堀バイパス(県道29号)歩道橋の所から右折、高架橋下を通って行く。   深堀の散策(1)長崎市深堀町1〜6丁目  https://misakimichi.com/archives/1964
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。
平幸治著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)492〜493頁の写しも載せる。

(2)御 船 手(1丁目460)
佐賀藩海軍の施設があった処である。元来、長崎は日本の唯一の開港場であつた関係上、外国船の入港も多く従って之が警備のため、佐賀藩、黒田藩が1年交替で長崎御番の任につき、佐賀藩の当番年には本藩家老(深堀の領主)が之に当り、記録によれば寛永年中(1631年)以降である。又沖波に対して、埋立前は殿様石垣が約100m位防波堤としてあった。その左側の石垣(永江)は当時のまゝである。日本博愛社は日本赤十字社の前身で、西南の役に多数の官賊の負傷者を見て、其の必要を痛感し博愛社を創った佐野常民が、此処で日本最初の蒸気船を作った処でもあるが、その結果は芳しくなかった。

サイト「近世以前の土木。産業遺産」長崎県リストのデータに、次のとおり登載された。

深堀の御船手・跡 ふかほり
長崎市 石護岸 寛永8(1631)以降 WEB(みさき道人) 埋立により形態は改変→石垣護岸のみ残る 佐賀藩海軍の船溜/長崎警備のために設けられた 3 B

三十六のめがね橋  熊本市北区植木町清水 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

三十六のめがね橋  熊本市北区植木町清水

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道3号植木町岩野交差点から県道3号へ、さらに山本小学校から県道119号に入り北上すると、三十六集落の県道右下に天満宮の鳥居が見える。

三十六のめがね橋
熊本市(北区) 人道<豊前街道>/天満宮<大清水川> 石アーチ橋 (凝灰岩) 長7.5m,S3.9m(A) 嘉永3(1850) WEB(石橋) 昭和59移築/C高欄 3 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,346  三十六の眼鏡橋
植木町清水
橋長:7.5m  径間:3.9m
架設:嘉永3年(1850)
昭和59年移築
植木町支所前から国道3号線を900m北上、県道3号線へ左折、4Km先右下天満宮境内にあります。
鹿央町の千田村と植木町の山本村境に架かっていたもので、三十六は小字名。

石橋の由来
「この石橋は、幕末の嘉永3年(1850)山本郡下大清水村庄屋畠山理左衛門、大清水村庄屋服部甚之助、玉名郡広村庄屋木村茂四郎、江藤又左衛門によって、村内を流れる大清水川に架橋されたもので、熊本新一丁目を起点とし、植木町味取、内村、三十六を経て本橋を渡り、山鹿町、南関町を経由して筑後、筑前、豊前小倉に至る九州屈指の入道を誇り、豊前街道の呼称で、参勤交代の道として利用された。築造以来約130年間その恩恵は実に多大なものがあった。
昭和57年の水害を契機として、今般千田川河川災害関連事業により、やむなく撤去せざるを得なくなったが、先人の偉業を偲ぶためにぜひ保存したいとの強い要望があり、県の協力を得てここに復元移築したものである。」
昭和59年3月  熊本市教育委員会

改寄立石の道路状遺構  熊本市北区改寄町立石 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

改寄立石の道路状遺構  熊本市北区改寄町立石

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。
私が資料としたのは、『鞠智城跡2−論考編1−』熊本県立装飾古墳館(Adobe PDF)から、「鞠智城西南部の古代官道について」木本雅康氏の研究紀要。
詳しい説明や場所説明は省くが、熊本市北区植木町(第4図地点は写真1,第5図地点は写真2)や改寄町立石(第6図地点は写真3〜8、特にヲ→レ、二→ヲを望む)の古代官道道路状遺構の現況写真である。

改寄立石の道路状遺構 あらきたていし
熊本市(北区) <西海道> 道路 東西約200m、その先直角に南下して約220mの区間 古代 木下 良 視認できる古代道路跡地としては、大規模 立石地区は東西約200m×南北約300mの長方形区画が明瞭で、空堀状の窪地で囲まれており、さらに道路状遺構と思われる帯状窪地がある 2 A

正院メガネ橋  熊本市北区植木町小野 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

正院メガネ橋  熊本市北区植木町小野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。植木町の熊本市北区役所前から市道を東へ2.3km。小野泉水公園に移築復元されている。

正院メガネ橋 しょういん
熊本市(北区) 人道/ 小野泉水公園<正院川> 石アーチ橋 (凝灰岩) 長5.5m,S4.8m(A),幅2.1m 安政3(1856) 市有形 WEB(石橋) 昭和52移築 楔石に関係者の名前が刻まれている/小野小町が産湯を使ったという伝承のある池 2 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,345  正院メガネ橋
植木町小野字七国
橋長:5.5m  橋幅:2.1m  径間:4.8m  拱矢:3.3m
架設:安政3年(1856)
昭和52年移築
植木町支所前から町道を東へ2.3Km。左手、小野泉水公園内にあります。
東側の要石には名前が刻んであります。

正院メガネ橋 市指定有形文化財
「安政三年(1856年)に正院川に架設されていた橋であるが、河川工事により昭和52年3月に、正院より現在地に移転して復元されている凝灰岩製。単一のアーチ橋である。幅2.1m。両脚間の幅4.8m、水面までの高さ2mである。楔石に陰刻銘がある。」
熊本市