朝日選書 136P写真 57 茂木海岸の町並み
長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。
朝日選書 136P写真 57 茂木海岸の町並み
幕末に外国人の遊歩が認められ、海水浴場やホテルがあった長崎郊外茂木海岸付近。外国人はここから船で雲仙に渡った。
撮影者不詳、1886年ごろ、鶏卵紙、25.8×19.9
〔解説記事 134P〕 茂木の海岸
1886年ごろの茂木村(現在の長崎市茂木町)です(写真57)。干潟が広がる浜には網の干場と伝馬船と呼ばれた小舟が見え、家並みには藁ぶき屋根が交じり、江戸時代の村の様子を残しています。1901年には中央に突き出した岬に、小浜、雲仙へと渡る船の桟橋ができました。海岸線は21年に埋め立てられ、今は県道34号が通っています。
茂木の歴史は古く、大村純忠が1580年、長崎とともにイエズス会に寄進しました。このときの契約書は長崎歴史文化博物館に所蔵されています。
江戸時代、出島のオランダ人は茂木まで遊歩が許されていました。このため、茂木では洋食の文化が先取りされ、明治時代には外国人の行楽や海水浴のためにホテルが建てられました。
岬中央の茂みに白く見える建物は、茂木の旧庄屋屋敷です。1906年、前に紹介した天草生れの道永栄が、外国人相手の茂木長崎ホテルをここに建てました。
茂木には若菜川の河口を利用した良港があります。小浜、島原、熊本、天草だけでなく、鹿児島、柳川、佐賀と結ばれ、交通の要所でした。水揚げされた鮮魚は、長崎の台所を支えただけではありません。現在でも京名物の鱧(はも)は茂木産が多いというから驚きです。
■確認結果
岬中央の茂みに白く見える建物を拡大してみる。たしかに茂木村の旧庄屋屋敷だろう。古写真下の解説図では、この建物を「茂木長崎ホテル」と表示し、解説記事では1906年、道永栄がこのホテルを初めて建てたように読まれる。
1886年ごろの撮影だから、この建物について年代に合った補足が必要なようだ。
解説図の「現在県道のある場所」も、前面茂木漁港の埋め立てにより少し変っているのではないだろうか。現在の写真は、玉台寺背後の高台墓地から写した。
長崎市立博物館編「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年刊の28頁による解説を載せる。
「…安政2年(1855)当時の庄屋は森岡豊左衛門で、リンデン伯もこの豊左衛門を訪問している。リンデン伯はその「日本の思い出」のなかで、食堂のような部屋で夕食をご馳走になったが、その部屋からは、一方には海、他方には村の美しい風景が望まれたと記述している。
同宅跡は、その後茂木ホテルが建てられたが、明治39年道永栄が買収、ビーチホテルと改称、戦前までは外国人達の格好の保養所として賑わった」
私の以前の記事は、次を参照。茂木ホテルと言われたのは、若菜川河口弁天崎(後のビーチホテル)と、潮見崎新田(後の松柏楼)に2つあったのが知られていなく、混同された古写真解説が多い。茂木村の旧庄屋屋敷の建物はこれでないだろうか。
道永エイの方の茂木ホテルの貴重な古写真は、裳着神社の拝殿に飾ってあった。「道永エイ」と刻んだ寄進石が境内に残っている。
https://misakimichi.com/archives/1535
https://misakimichi.com/archives/1818