津波よけの石垣  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

津波よけの石垣  長崎市福田本町

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊44〜47頁による説明は次のとおり。
本ブログ次を参照。 福田の散策(3) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1671

(3) 事代主神社祠と宮林
此れから海浜防波堤に沿いながら千本松原の方へ歩くと、道中、事代主神社祠があります。そして米田歯科研究所手前辺りに、頃は寛永12年(1635)、中野平五左衛門が天満宮を再興しました。しかし当時、福田地方は津波が度々あり、後難を恐れて天和元年(1681)徳川五代将軍綱吉の時代に現在の高台に移しました。跡地は今日、住宅が立ち並び僅かな樫、椿の巨木が当時の区域として残るのみです。

(4) 津波よけの石垣
自然石を1〜2m積み上げた石垣が所々残っています。これは天和元年(1681)以前に津波があり、度重なる津波に後難を恐れた住民が、宮林より海岸沿いに長々と石垣を築いたものです。

さて、この歴史散歩「(4)津波よけの石垣」である。福田バス停近くに「福田史蹟案内図」があり、(4)の場所を訪ねた。「津波除けの石垣」というのは、全国でも和歌山県に3ケ所、大分県に1ケ所以外、今のところ把握されていないくらい貴重な遺構となるらしい。
事代主神社祠後ろの宮林跡近くで、私が見た石垣の現況は、写真のとおり。この辺りは住宅地となり、石垣はだいぶん壊されているが、ここの畑地に幅2m、L字に曲がって長さ50mくらい、高さ1〜2mほどの古い石垣が残っていた。多分この石垣のことではないだろうか。
遺産サイトへ画像で報告したところ、次のような返答があった。

長崎歴史文化博物館から回答がありましたが、福田地区に関しては資料を所蔵していないとのことで、期待した情報はありませんでした。
『日本被害地震総覧』より、長崎周辺で、下記の地震があったことが分かりました。
・1657年1月3日(明暦2年11月19日) 夜 長崎
家の接目が口を開き、柱および壁が倒れたという。
・1725年11月8〜9日(享保10年10月4〜5日) 肥前・長崎 M6
9月26日に80回余の地震を感じた。
大分有感。この両日は地震を強く諸所破損多し。
平戸でも破損多し。天草・大分有感。
『出島日記』よるとこの地震は継続的に翌年の8月30日までつづく。
この年11月25日06時ころ強震、出島の建物はすべて小損。大村では感じなかった。
翌年1月13日5時ころの地震で被害かなり。
テントに暮らす。中国人居留地破壊、また長崎市中にも被害。
『出島日記』により、被害が少し分かるようになった。
津波除けは、24年も前なので、関係があるとはちょっと言い難いかもしれませんね。
津波除けが90度に曲がっていると、そこに波が集中して危険です。津波除けの堤防は直線状に造られるはずです。

岩永氏が参考資料としたのは「福田の旧跡(福田公民館)」。「福田村郷土史」は宮本瑞穂氏や林純夫氏著のがあるが、林氏のでは記述を見出せない。正確な文献や現地調査は、地元にお願いしたい。
福田は外洋に面し、地形的な高波、冬場の荒波や台風期には上陸地点となることがある。今行ってもこの付近だけ防波堤がさらに嵩上げされていた。

平成21年4月学さるく「神の島から福田まで」講師江越弘人氏の作成資料は、次のように記している。
15 津波よけの石垣
福田は、しばしば津波(恐らく高波であろう)に襲われ、福田本町の辺りは水に浸かった。そのために津波よけの石垣を築いていたが、今でもその跡が所々に残っている。
長崎文献社平成10年刊「長崎町人誌 第六巻」中の”新編 長崎名勝シリーズ”福田地区の天満神社の項
257〜258頁に次の記述があった。わざわざ「海嘯(*高波)」と注釈がある。これが正しいのだろう。
L字状に築かれたのは、当時の集落の端がこの辺りまでだったためと思われる。

天満神社  旧福田村の鎮守で、福田本町字宮の脇に鎮座する。創立は詳らかではないが、大村純忠時代のキリスト教徒による寺社破却以前から祭られていた。寛永12年(1635)8月中野平五左衛門茂明が再興。そのころ田子島にあったが、天和元年(1681)夢の神託を蒙り、現在地に勧請。…
夢の神託のこと  ある夜海嘯(*高波)あり、当地佐々木某神託を蒙る。即ち「海嘯あり自分は今流失の危険にさらさる海水すでに胸に達す」と、佐々木某奇異の思ひをなせしがまさかとの疑念を抱きて寝に就く再度神託ありしも意に留めず三度神託を蒙りただ事ならずと思い衣を改めて出ずれば夢の如し、直ちに海水に浸して社殿に至れば神体正に流失の危機にあり直に神体を奉持し自宅に安置せり、海嘯悉く引きて後再度社殿に奉遷せんと考えたるも 後難を患へ現社地内に勧請せりといふ 旧社地を天満宮元屋敷と称し附近の林を「宮林」と称せり。(『福田村郷土史』より)

「かいしょう 海嘯」 (広辞苑第2版から)
(津波に当てるのは誤)満潮の際に遠浅の海岸、特に三角形状の開いた河口部に起る高い波。中国の銭塘江、南米のアマゾンなどに顕著。
「かいしょう 海嘯」 (旺文社国語辞典から)
(「嘯」は、うなる意)遠浅の海岸や三角形状の河口などで、満潮時に逆流する海水が、狭い河口の抵抗によって壁状の高い波となる現象。また、その高波。

なお、サイト「近世以前の土木・産業遺産」リストへの登載は、次の見解があり保留となった。

「海嘯」という用語は、江戸時代には、各種の要因により海水が高く押し寄せる現象すべてを指していましたから、現代の用語の海嘯とは違います。しかし、各種の要因の中には、地震による津波だけでなく、高潮も、台風による高波も含まれます。
問題は、ここからです。天和元(1681)年に夢を見て、現在地に勧進とあります。ということは、勧進はそれ以後となります。これを信じれば、津波の場合、宝永地震(1707)によるものとなります。もちろん、高潮、高波については年代は特定できません。
一方、福田天満神社の「棟札には寛永年間(一六二四〜一六四四年)の再興とある」との記述も見つけました。棟札は建物に付属するものですから、もし、「現在地に勧進」されたとするのが正しいのであれば、棟札は18世紀の年代が書いてあるはずです。

棟札が、「寛永12年(1635)8月中野平五左衛門茂明が再興」の数値と同じと言うことは、移転はなく、現在の位置に最初から建てられていたことを意味します。そのくらい、棟札の持つ意味は重いのです。もちろん、この棟札の情報そのものが間違っている可能性もあります。
しかし、もし正しいとすれば、「夢の神託」そのものが作り話ということになり、波除石垣も雲散霧消してしまいます。形態が、前に申し上げたように、波除としてはあり得ないことも、それを裏付けているように思います。
一方、松林の方は、宝永地震(1707)を受けて造られたと考えれば、元文元(1736)の築造も合理性があります。