熊本県」タグアーカイブ

津奈木重磐岩眼鏡橋  津奈木町岩城 ( 熊本県 )

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津奈木重磐岩眼鏡橋  津奈木町岩城

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。国道3号が津奈木町中心街に入って、つなき文化センター反対側の川向かいに町営温泉「四季彩」があり、このすぐ上流に架かる。

№63  津奈木重磐岩眼鏡橋

津奈木町岩城
県指定重要文化財
津奈木川
橋長:16.85m 橋幅:4.26m 径間:16.53m 拱矢:5.45m 環厚:68cm
輪石:44列
石工:蓑田大作
町営温泉「四季彩」を目標

津奈木重磐岩眼鏡橋
「津奈木川にかかるこの石橋は、北側にそびえる岩山「重磐岩(ちょうはんがん)」にちなんでこの名で呼ばれている。
嘉永2年(1849)に津奈木総庄屋近藤三郎左衛門為経の尽力で架けられた橋で、種山(現東陽村)石工岩永三五郎の弟三平が鹿児島で受けた傷の療養で世話になったこの村の人々へ、お礼として、棟梁としての腕をふるったと言われている。
石材は凝灰岩が使用されている。全長18m、幅4.5m、アーチの頂上18m、拱矢(基礎からアーチの頂上までの高さ)5.7mある。アーチの上に乗る石積みが少なく、アーチそのものの機能的な美しさ、堅牢さと、軽快さを感じさせる美しい石橋である。」
熊本県教育委員会

新村のエノキ  相良村柳瀬 ( 熊本県 )

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新村のエノキ  相良村柳瀬

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。人吉市から県道33号により相良村柳瀬橋まで行く。橋手前から村道を川辺川下流側へ下ると、くまがわ鉄道川村駅手前の新村にこのエノキがある。
現地説明板は写真のとおり。

新村のエノキ(しんむらのえのき)  相良村

所在地 球磨郡相良村柳瀬
新村のエノキとアサの話

○ 新村のエノキ
十島菅原神社から球磨川鉄道をわたり右に折れて、球磨川の堤防ぞいに新しくできた田んぼの中の広い道を、川村駅を右手に見てしばらく進むと、急に狭くなるところが出てきます。その角に大きなエノキが立っています。それが「新村のエノキ」です。このエノキは平成3年11月11日に“ふるさと熊本の樹木”に指定されています。幹まわり2、75m、樹高(じゅこう)約23m。以前このエノキの下に「オイデガマ」または「ウヲダテ釜」と呼ばれる大きな釜をすえて、その上に大きなおけ(高さ約3、5m)をかぶせ、アサを蒸していたそうです。「オ」とか「ウヲ」というのはこの地方でアサのことを言います。また「オイデガマ」の「イデ」というのは“ゆでる”という言葉が変わったものです。つまり「オイデガマ」は“アサをゆでる釜”といった意味があります。そして蒸(む)し上がるとこのエノキの枝に縄をかけておけを引き上げるのに使っていました。この「新村の榎」の土地の持ち主である堀田冨男(ほりたとみお)さんによれば、以前は縦型の桶を使っていたそうですが、その後横型の「麻箱(あさばこ)」に変わったそうです。また、アサは春の彼岸(ひがん)頃に種をまき、7月の土用(どよう)のとても暑い時期に1丈(いちじょう)つまり3、3mほど伸びたアサを刈り採って蒸していたそうです。この「新村のエノキ」でアサを蒸していたのは1955年頃までだったそうで、今はその現物は残っていませんが、山江村歴史民俗資料館に行くと横型の「麻箱」が展示してあります。

○ 球磨地方のアサ
山江村歴史民俗資料館の菖蒲和弘さんによると、球磨地方は古い昔からアサの産地として有名だったそうで、“球磨”の書き方に“求麻”という字をあてて“くま”と呼ばせているのが明治8年に作られた「球磨郡村地誌」に載っているそうです。とれたアサは皮をはぎ、天日(てんぴ)に干した後、灰を入れて煮られ、やわらかくなった皮は川で荒皮(あらかわ)をはがされて乾燥させ、製品して出荷していたそうです。残った芯(しん)の部分はアサガラとよばれ、子どものへその緒切りや提灯(ちょうちん)の線香(せんこう)立てに使っていたそうです。また、葉は集めて燃やし、その煙を病人に浴(あ)びさせて治療に使っていたとも言われているそうです。さらに、この葉はいい堆肥(たいひ)として田の肥料にも使われていたと話されていました。現在のアサの生産地は主に島根県出雲地方だそうです。
アサはクワ科の一年草、花や葉から麻薬がとれることから栽培は許認可制となり、球磨地方では栽培されなくなりました。通常アサとして使われているのは亜麻(アマ)の方で、日本では17世紀頃持ち込まれて栽培され続けています。こちらは、アマ科の植物です。

○ エノキ
ニレ科の落葉高木で、大木になると20mを越えます。花の時期は4月〜5月で、黄色い花をつけます。葉は左右に分かれ交互に着いていて、3本の葉脈が目立っていて縁にギザギザがあり、先はとがっています。果実は5〜6mmで赤っぽく、10月ごろつけます。昔はこの果実を空気鉄砲に使って遊んでいたそうです。「オイデガマ」には、なぜかきまってこのエノキがあって、縄を掛(か)けるのに使われました。

参考文献
・『野外観察ハンドブック 校庭の樹木』 岩瀬徹・川名興 全国農村教育協会 1991年
・『相良村誌(自然編)』 相良村誌編集委員会 相良村 1994年
・『ヤマケイポケットガイド13 野山の樹木』 姉崎一馬 山と渓谷社 2000年
・『Microsoftエンカルタ総合大百科2003』 Microsoft Cor

陣ノ内の瀬  相良村柳瀬 ( 熊本県 )

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陣ノ内の瀬  相良村柳瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号により相良村柳瀬橋まで行く。橋手前から村道を下流へ下ると、「舟場バス停」がある。
川辺川に出ると、広い川中に大きな瀬があり、これが「陣ノ内の瀬」と思われる。川辺川の本流は、左岸側を流れ、手前の右岸側は静かな流れであり、船着き場のような広いコンクリート舗装の岸壁があった。

陣ノ内の瀬 じんのうち
(球磨)相良村 球磨川 船着場 江戸期 歴史の道・球磨川水運p.51 大きな岩陰に淀みがあり格好の着船場になっている

深田の魚背岩(ぎょはいがん)  あさぎり町深田西 ( 熊本県 )

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深田の魚背岩(ぎょはいがん)  あさぎり町深田西

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。県道33号によりあさぎり町深田西へ行く。私が撮影したのは、古町橋の少し上流、立岩手前の県道上からとその対岸あたりから。

深田の魚背岩(ふかだのぎょはいがん) あさぎり町

所在地 球磨郡あさぎり町深田西
球磨川に巨大な魚の群れが見える
◆あさぎり町・深田西の古町橋から球磨川をのぞいてみると・・
古町橋の上から球磨川をみると、水面から上に出て見える川底の岩が巨大な魚の群れのように見えます。他の場所でも小規模には見られる風景かもしれませんが、この場所の風景は非常に大規模で、長さ5・6mほどの巨大な姿が多数見られます。その様子を球磨人吉の地質研究家・原田氏は「魚背岩(ぎょはいがん)」と呼んでいます。
◆魚背岩ができた原因について
深田周辺の地層には、加久藤溶結凝灰岩(かくとうようけつぎょうかいがん)と呼ばれる岩石があります。古町橋周辺の川底もそうです。溶結凝灰岩のつくる地形で代表的なものは、ポットホール(甌穴)と呼ばれる丸いくぼみですが、この古町橋周辺では少しちがった特徴になっています。このような地形ができた原因は、球磨川の川底を流れる泥砂や石と球磨川の水流です。土砂や石は、川の流れに沿いながら川底の熔結凝灰岩を傷つけ、削り取って行きます。川の水流が豊富で速かったために、一カ所を丸く削りこむのではなく、溝状に細長く深く削られ、1匹1匹の魚をつくり出しました。こうして魚背岩ができたのです。
◆加久藤熔結凝灰岩について
古町橋の上流300mほどの県道わきに、立岩と呼ばれる溶結凝灰岩の大きな岩があります。そして道向かいの崖も溶結凝灰岩でできています。これらの溶結凝灰岩は、ここから約20km南にある加久藤盆地を噴火口とした、大噴火によってつくられた火砕流堆積物(かさいりゅうたいせきぶつ)です。時代的には、約30数万年前の第4紀・後期更新世と考えられています。この古町橋周辺では、溶結凝灰岩の中に直径2〜3cmの軽石やカクセン石の斑晶がみられます。色が灰色で、溶結度が高いのが特徴です。
また、あさぎり町深田地区の溶結凝灰岩は、地域の人たちからは「深田石(ふかだいし)」と呼ばれ、生活の中に石垣や石臼(いしうす)などの石材として利用されていました。
参考文献
・深田村誌編纂委員会 『深田村誌』 深田村教育委員会 1994
・『日本の地質9「九州地方」』 日本の地質「九州地方」編集委員会 共立出版 1992
・町田洋ほか 『日本の地形7 九州・南西諸島』 東京大学出版会 2001
・田村実ほか 『土地分類基本調査 5万分の1表層地質図「人吉」』 熊本県 1982

多良木の道標  多良木町多良木 ( 熊本県 )

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多良木の道標  多良木町多良木

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。大分県佐伯市から宮崎県延岡市に出て、国道388号により熊本県多良木町へ行った。山岳ルートで特に西米良へ出る標高1140mの大河内峠越しは難所である。九州大学宮崎演習林があった。
多良木町多良木の道標は、県道33号馬門バス停から北の岩川内・松ヶ野を指す町道に入る。しばらく進んだ「多良木10区の2公民分館」前の三差路広場に立つ。幅24×横24×高さ85cm。

多良木の道標 たらぎ
(球磨)多良木町 (岩河内)<北目街道> 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高85㎝,24㎝角 天明元(1781) 町教委/WEB(みさき道人) 移設 (正面)「從是、右 く王んをん道/左 松がのみち」 2 C

東竹原の甲斐有雄道標  山都町東竹原(日向泊) ( 熊本県 )

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東竹原の甲斐有雄道標  山都町東竹原(日向泊)

高森峠トンネル先から国道325号へ入る。約3km行くと、右側に旧蘇陽町東竹原集落への入口があるが、そのまま国道を進むと、今度は左側に日向泊入口の案内標識がある。この道が国道の旧道だったのだろう、奥の日向泊集落まで入ると、集落はずれの電柱下に針金でくくった石道標があった。
移設したものか、旧街道の道は、私にはわからない。この先はまた国道へ出た。

横35×幅18×高さ60cmほどの自然石。正面に「右 竹の原 下ハ日向泊 左 くさのべ通 日向道」、右面に「明治十八 秋 千二百九十一号」、左面に「甲斐有雄 建」のように刻む。
高森生まれの甲斐有雄が、主に明治初期、熊本県や宮崎県などの一帯に多く建てた石道標のうちの1本だったので、参考に記録しておく。甲斐有雄の道標は、本ブログ次を参照。

甲斐有雄の道標群  高森町・高千穂町   https://misakimichi.com/archives/4723

東竹原の道標(彼の石の板碑)  山都町東竹原 ( 熊本県 )

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東竹原の道標(彼の石の板碑)  山都町東竹原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。前回、地元に聞いても所在がわからず、資料をあたり大分県からの帰りに再び訪れた。今回の場所調査は、地元野原の栗屋氏(旧町文化財保護委員)にたいへん世話になった。
最後の写真は、高森峠展望所から阿蘇山を望む。資料は、蘇陽町郷土誌から。

高森峠トンネル先から国道325号に入る。しばらく行くと東竹原集落の入口があるが、国道をそのまま約3kmほど直進する。案山子茶屋先に国道が大カーブするところがあり、ここが里道との四叉路となっている。
左を見上げると白い史跡標柱があり、榎が立った大岩が「彼の石の板碑」だった。全面に苔がひどく、はがさないと識字は困難。本来は奉祝御甲申という板碑。左右を示す地名は特に小さな刻みで、はっきりわからなかった。

東竹原の道標(彼の石の板碑) ひがしたけばる
(上益城)山都町 <日向往還> 石道標(自然石) 高240㎝,幅350㎝,厚280㎝ 文化13(1816) 町史跡 町教委 原位置 (正面)「右ハ ひうがゑ/左ハ あそ山 くまもとゑ」/街道沿いの自然の巨石に道しるべを刻んだもの 1 B

鉾納社のケヤキと夫婦スギ  小国町黒渕(東蓬莱) ( 熊本県 )

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鉾納社のケヤキと夫婦スギ  小国町黒渕(東蓬莱)

サイト「気になる!くまもと」の老樹名木が語る『ふるさとの自然・歴史・暮らし』による記事は、次のとおり。
国道387号沿い。小国町出身の洋画家坂本善三美術館に至る道の角に、鉾納宮(鉾納社)がある。

樹齢1000年の鉾納社(ほこのみや)の欅(けやき)  (阿蘇郡小国町)

■年月の積み重ねを感じさせるケヤキ

神社の境内から行き交う人々を見守るようにそびえ立つ巨樹です。近くにある大杉がすらりとしているのに比べ、ゴツゴツとして苔むした幹の佇まいに堂々とした風格を感じます。
ケヤキ 町指定天然記念物
樹齢(推定) 1000年
幹囲 7.3メートル
樹高 18.3メートル

■ケヤキやスギの巨木がつくる鎮守の森

小国町の中心・宮原(みやのはる)地区から国指定天然記念物「阿弥陀杉」に向かう途中、国道387号から坂本善三美術館に曲がる右手の角に鉾納社(ほこのみや)があります。この境内には巨木が多くて神々しい鎮守の森を作っていますが、その曲がり角を見下ろすような位置に立っているケヤキの巨樹が「鉾納社の欅」です。樹肌はゴツゴツとして苔むし、道路より一段高い台地の縁に立っているため根が地表に現れ出て、岩の塊の一部のように見えます。
道路から境内に登って行く石段の右側に立つ、厳格な門番のような佇まいです。もともとは、神社を守る仁王像のように2本のケヤキが並び立っていましたが、西側の樹が枯れて1本だけになってしまったとのことです。樹高は現存する樹の方が高いのですが、幹囲は枯れた樹の方が大きかったそうです。一本だけでもこれだけ堂々としているのですから、二本がセットになって並んでいたときの姿はさぞかし立派だったことでしょう。

鉾納社は明治期に正式名を宝来(ほうらい)吉見神社と定めましたが、地元では古くからの名である鉾納社と呼ばれています。神武天皇の皇子国龍命(くにたつのみこと)とその妃が祀られています。神社の由来は詳しくはわかりませんが、言い伝えによると黒淵地区の久漏牟田(くろむた)の鉾洗(ほこあらい)から二振りの鉾が出土し、湧水できれいに洗いあげたところ見事に光り輝き、その鉾をお宮に納めたといわれます。
楼門の下には「夫婦杉」と呼ばれ、樹齢700年といわれる2本のスギの巨樹が、高さを競うように並んでそびえ立っています。勢いよく伸びた枝からは青々と葉が茂り、圧倒的な存在感があります。楼門に向かって右が男杉、左が女杉と呼ばれていて、二人三脚で小国郷を見守ってきたかのようです。夫婦杉のほかにも拝殿の横や境内に何本ものスギが大きく育っていて緑濃い鎮守の森を形成しています。境内には古い祠(ほこら)があって、そこに社(やしろ)を建て、安産祈願の小さな鳥居がつくられました。

鉾納社の横には小国町が誇る坂本善三美術館があります。坂本善三は明治44年(1911)小国町黒渕に生まれました。「グレーの画家」と称され、ヨーロッパでは日本の伝統的な美しさを表現する画家として高い評価を受けました。東京のアトリエを空襲によってすべて失った画伯は、戦後に帰郷して、ふるさとの自然などをテーマに抽象画を描き続けました。この美術館では昭和62年(1987)に亡くなるまで制作した代表的な作品177点を収蔵、展示しています。明治期の古民家を改築した美術館は、郷土の景観保全と創造に貢献したとして、平成7年に「くまもと景観賞」を受賞しています。

二俣の取水口と水路トンネル、石橋  小国町二俣 ( 熊本県 )

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二俣の取水口と水路トンネル、石橋  小国町二俣

国道212号の小国町下城イチョウ入口に案内板があり、市道で西里の「遊水峡」へ向かう。遊水峡入口手前で、二俣集落の新二俣橋を渡る。ここに北里川からの水路の取入口と水路トンネルが多くあった。
写真のとおり一帯を良く探すと、町施設内には水路の上部が通路となって、アーチ式石橋?と言えるのもあった。

遊 水 峡  小国町西里 ( 熊本県 )

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遊 水 峡  小国町西里

熊本県阿蘇郡小国町にある川遊び・紅葉・キャンプスポット「遊水峡」。公式HPによる説明は、次のとおり。国道212号の小国町下城大イチョウ入口に案内板があり、西里への市道で向かうのが、近くてわかりやすい。

遊 水 峡
遊水峡は、9万年前の阿蘇の火砕流とその後の川の浸食によって出来た美しい峡谷です。
大小いくつもの滝と変化に富んだ地形は、四季を通じて、春は新緑、夏は川遊び(ウォータースライダー 幅25m、長さ300m)、秋は紅葉(10月下旬〜11月中旬頃)、冬は雪景色など、ここでしか味わうことが出来ない自然を体感することができます。