月別アーカイブ: 2015年6月

滴水の眼鏡橋  熊本市北区植木町小野 ( 熊本県 )

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滴水の眼鏡橋  熊本市北区植木町小野

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。植木町の熊本市北区役所前から市道を東へ2.3km。小野泉水公園内に移築復元されている。

№1,344  滴水橋
移築前
植木町滴水(たるみず)
木葉川
橋長:6.1m  橋幅:4.46m  径間:3.2m  拱矢:1.54m  環厚:31cm  輪石:17列
国道3号線・国道208号線交差点から国道3号線を600m南下、2つ目の信号を右折 700m先、桜井小を過ぎて右折、800m先に架かっていました。

5年2ヶ月ぶりの訪問
今年1月に撤去されました。小野泉水公園に移設されるそうです。
左手ブルーシートの下に石材が保管されています。
以上 2010.02.06撮影

滴水の眼鏡橋(移築復元)
元所在地 植木町大字滴水字高田の滴水と平野の間
「もとは木葉川上流の神の木川に架かっていた単一アーチ橋で、垂直な橋台の上に洪門(アーチ)がのる構造です。
長さ6.3m、幅4.4m、アーチ径3.2m、アーチ部の高さ2.7mで、輪石17列と橋台3段(使用石材数155個)で構成されていました。アーチ部はボルトやコンクリートを使用せずに石材のみで組み上げられています。
小型橋ながら構造は堅牢で破損がなく、架橋当時の状態が非常に良く残っています。石材は凝灰岩切石で、精緻に組み上げられており、当時の技術の高さを物語っています。中央の楔石は、他の輪石より少し大きい石材が使用され、輪石下の橋台は切石を垂直に積み上げてあり、輪石と共に精美な印象を与え、丁寧な仕事ぶりがうかがえます。脇にあるもとの高欄と親柱の一部は川から引き上げました。
架橋した年代や施主、石工は現在のところ記録がありませんが、明治〜大正時代のものと思われます。」
平成22年(2010)3月 熊本市教育委員会

滴水からここ小野泉水公園に移築復元されました。
以上 2010.03.22撮影

龍田の里数木(二里)と道標石  熊本市北区龍田7丁目 ( 熊本県 )

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龍田の里数木(二里)と道標石  熊本市北区龍田7丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストのデータは、次のとおり。県道337号の熊本市北区龍田7丁目、二里木バス停横の一角にある。
後ろの写真は、この一角に一緒に設置している道標石だが、もともとの位置はここではない。付近から移設したとのことである。年代は不明。

龍田の里数木(二里) たつだ
熊本市(北区) <豊後(大津)街道> 一里木 榎(南側1本) 江戸期 WEB/歴史の道・豊後街道p.93 根元が空洞化→保存に成功 豊後(大津)街道に残る唯一の一里木 2 B

熊本市龍田校区まちづくり協議会HPによる説明は、次のとおり。

【歴史ある二里木里数木の保存】
台風シーズンを前に歴史ある二里木の里数木を守れ!
天正16年(1588)熊本城主となった加藤清正は、政治経済、軍事の重要なルートとして豊後街道を整備しました。この街道は、熊本城内・札の辻を起点として、大津、阿蘇の二重峠を越え、内牧、九重を通り、豊後鶴崎に至る道です。
街道には、札の辻を起点として、1里(約4km)毎に塚が設けられ、そこにエノキ等の樹木が植えられました。江戸時代には細川藩主が参勤交代の時に通った路として知られ、また、商業においても多くの人々が行き交ったとされます。 現在、龍田7丁目、熊日新聞販売所の前にある二里木里数木は、豊後街道の一部であった大津街道では里数木として生き残っているただ1本の貴重な木であり、先代の枯死したと思われたエノキが芽を吹き出し、隆々と緑の葉を繁らせています。
しかし 、根元が空洞化しており、台風等の影響を受ければ倒木の恐れがあり、また、通行する人にも被害が及ぶ危険がある為、歴史委員会では、剪定及び支柱等の対策を考えましたが、当委員会の予算では難しく、熊本市当局の方へ相談に行きました。そして、東部土木センター及び龍田まちづくり交流室の協力を得て、この歴史ある里数木を保存することができました。関係各機関の皆様のご協力ありがとうございました。

【二里木道標石の説明】
龍田町上立田字吉ノ平この道標石は、擬灰岩の自然石の石柱で、現高120cm底辺32cmの四角錐に近い形をしている。表上には「1628番」とあり、その下に二行に分けて「右あそ・大分」「左大津・内牧」と大きく刻み、左側面には「等所清水旦次・阿蘇郡甲斐有雄」と刻まれている。
甲斐有雄は阿蘇郡野尻村尾下(現高森町)の石工であるが、旅人の道に迷う者の多いのに心を痛め、文久元年(1861年)から道標石の建設を始め明治10年の西南の最中もその事業を継続した。 県下では阿蘇を中心として上益城・飽詫まで足を延ばし、宮崎県では臼杵郡大分県では直入郡などにも建設し総数1900基にも及んでいたる。尚、甲斐有雄の道標石は、熊本市では現在、この1つしか発見されていない。
2003年8月20日  龍田町まちづくり協議会・歴史委員会

豊後街道櫨並木  菊陽町大字津久礼 ( 熊本県 )

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豊後街道櫨並木  菊陽町大字津久礼

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストのデータは、次のとおり。菊陽町県道337号(旧国道57号)の、JR豊肥本線三里木駅西側となる県道138号高架下から菊陽ボウル前あたりに、櫨並木の大木が残る。

豊後街道櫨並木 ぶんご
(菊池)菊陽町 <豊後街道> 櫨並木 (産業遺産) 約300m,約15本 元禄15(1702)以降 WEB(みさき道人)/WEB 一見並木に見えるが他の木も混植 江戸細川邸に預けられた大石内蔵助が、厚遇に感謝して、ロウソクの原料となる櫨(ハゼ)の栽培を勧めたことに由来する 2 B

大津街道杉並木(肥後の大杉並木))  菊陽町県道337号 ( 熊本県 )

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大津街道杉並木(肥後の大杉並木))  菊陽町県道337号

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストのデータは、次のとおり。「日本の道百選」碑や「大津街道菊陽杉並木」案内板は、菊陽町県道337号(旧国道57号)の、JR豊肥本線を挟んだ菊陽杉並公園さんさんが対面となる菊陽津久礼交差点付近にある。

大津街道杉並木(肥後の大杉並木) おおつ
(菊池)菊陽町・熊本市(北区) 豊後(大津)街道→旧国道57号,JR豊肥線 杉並木 約20km→12km,幅34-39m,1340本(昭和12)→1002本(平成11) 天正16(1588)以降 町教委/WEB/歴史の道・豊後街道p.95 旧国道側のみ杉並木が残る/大半は昭和初期の補植/原形を留めているのは三里木〜原水間 加藤清正により植栽された(将来の城の修築用材と、伐採による敵兵の進軍防止が目的とされる)/屋久杉を使用したとの伝承があるが証明されていない(当初の杉が1本も残っていない。戦後補植された杉は、屋久杉の実生苗を使用)/幅が広かったため、国鉄と国道が併設された 3 A

上津久礼眼鏡橋  菊陽町津久礼 ( 熊本県 )

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上津久礼眼鏡橋  菊陽町津久礼

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道57号菊陽バイパスから菊陽町役場の方へ入る。役場下の南西側となる田の中の公園にあるので、県道207号を西へ行き、上津久礼バス停近くから入る。説明板所在地図のとおり。

上津久礼眼鏡橋 かみつくれ
(菊池)菊陽町 人道/公園内の池<井手> 石アーチ橋 (凝灰岩) 長16.20m,S7.00,5.65m(2A), 幅2.80m 天保9(1838) 町有形 町教委 /WEB(石橋) 明治元 小規模修復→平成元 公園化/高欄改修 石工:治助/2径間アーチ 2 B

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№259  上津久礼眼鏡橋
菊陽町津久礼(つくれ)
菊陽町指定文化財
津久礼井手・瀬田下井手
橋長:16.2m  橋幅:2.8m  径間:7.3m
架設:天保9年(1838)
井口眼鏡橋の東側少し先のT字路を左折、約600m先を右折、さらに約600m先を右折。その頃には田んぼの中に見えてきます。
現在は公園化され保存されています。

菊陽町指定文化財   上津久礼眼鏡橋
「この眼鏡橋は、津久礼井手と瀬田下井手の接する所に架かる町内唯一の二連式アーチ橋でした。平成元年(1989)の県営圃場整備事業により両井手がなくなり、それに伴い、この眼鏡橋も撤去される計画でしたが、祖先の貴重な文化遺産を後世に残すために、周辺用地も併せて公園化し、現地保存されています。この橋の特徴は両井手の幅と高さに合わせて架けてある所で、アーチの大きさが異なっています。
なお、公園南西角の“古宮跡”の碑は、ここから南西約350mに建っていたものを併せて移設したものです。津久礼集落は、もと白川端にあったのですが、水害が絶えず、延宝6〜7年(1678〜1679)頃、現在地に移住しました。現在の宮“若宮八幡宮”はここから、北へ約400mのところにありますが、本殿前の二の鳥居には“延宝八年正月吉日”“氏神當所移徒”と刻まれ、遷宮と村直りの歴史を物語っています。」
■問い合わせ:菊陽町教育委員会  平成24年3月

古閑原眼鏡橋  菊陽町大字原水 ( 熊本県 )

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古閑原眼鏡橋  菊陽町大字原水

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道325号灰塚IC下の県道30号古閑原入口から北へ入る。大津からの上井手沿いに下流へ左折すると、200m先に架かっている。

古閑原眼鏡橋 こがばる
(菊池)菊陽町 人道/瀬田上井手 石アーチ橋 (凝灰岩) 長6.70m,S4.90m(A),幅2.20m 天保9(1838) 町有形 町教委 上部C改修/高欄鉄柵 石工:石切貞助 3 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,539  古閑原眼鏡橋
菊陽町古閑原(こがばる)
瀬田上井手
橋長:6.7m  橋幅:2.2m  径間:4.9m  拱矢:2.8m
架設:江戸末期〜明治初期
国道325号線高架下の西150mで県道30号線を200m北上、上井手沿いに左折、200m先に架かっています

古閑原眼鏡橋  昭和52.2.26指定  菊陽町大字原水
「瀬田上井手に架かる単一アーチ橋である。去る昭和12年、県道大津・植木線が開通し、従来の主要な生活道であったこの道路も利用者が減少したがその以前は交通の要衝であり、古閑原区の玄関口にあたっていたところである。元来、眼鏡橋は莫大な費用と、労力を要するため、最も重要な生活道にのみ架設されたものである。この眼鏡橋の基礎部は、井手底から約2.2m上方からはじまっており、変形アーチ橋であるが、幸い両岸が堅い岩盤のために、保存状態は良好であるが、一般的な見方としては、幕末から、明治初期の架橋と思われる。
橋長6.7m・橋幅2.2m・輪石数25枚・高さ4.9m・スパン4.9m・である。」
菊陽町教育委員会

下井手の井樋  大津町瀬田 ( 熊本県 )

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下井手の井樋  大津町瀬田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。下井手沿いの県道207号が大津東小学校付近を過ぎて、下井手を渡った橋先に史跡案内板がある。

下井手の井樋 しもいで
(菊池)大津町 石樋門 (4門) 慶長3(1598)改修 周辺環境(樋門内を含め)が劣悪/屋根が近代化 加藤清正が手掛けた(大規模に改修した)とも言われるが〔下井手は奈良初期の開削→埋没→加藤清正が天正17(1579)〜慶長3に改修〕/樋門がいつからあったかは不明/国内に現存する最古級の石樋門/石柱と木梁を組み合わせた珍しい構造/ろくろ登場前の上下スライド式の開閉装置 3 A

大津町HPの「町の史跡」による説明は、次のとおり。

■下井手取入口
白川北岸を潤す用水路の堰です。上流に上井手、下流に下井手の取入口があります。
この内、下井手は奈良初期(和銅年間)肥後国司阿部乙名が開削したと伝えられますが、埋没して遺跡化したといわれています。それを加藤清正が天正17年(1579)改修に着手し、慶長3年(1598)竣工、さらにその子忠広が元和中に補修し完成しました。

上井手は、加藤清正が構想し、忠広が元和4年(1618)に着手し、寛永9年(1632) 引水まで開削して中断されました。加藤氏改易後に入国した細川忠利は、引続き寛永13年(1636)に工事を再開、綱利の代に坪井川まで完工しました。堰口はともに清正秘伝の「銚子口」と伝えられています。
上井手の堰は洪水にしばしば流失し、文政11年(1828)には堰を少し下流に移設しましたが、安政期に大津手永惣庄屋山隈権兵衛が各所に改修を施す時により元の位置に戻され、現在に至っています。明治33年と昭和28年に未曽有の大洪水で破壊され、昭和32年現在の取水口が完成しました。

旧上井手取入口  大津町大字瀬田 ( 熊本県 )

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旧上井手取入口  大津町大字瀬田

上井手沿いの県道207号により東へ進むと、第一瀬田橋が上井手を渡り、その上流側に「上井手取入口閘門(こうもん)」に入る道があるが、この前記事を補足する。
1枚目写真どおり、入口の案内標識は、「上井手取入口 瀬田区 (1,2井樋)」。上井手取入口閘門に行く途中、右手橋上に小さな「旧上井手取入口」の標識があるから注意する。

橋を渡って上井手の流れに行くと、木立茂みの中に見えにくい「旧上井手取入口」の樋門がある。これが上流との(1,2井樋)の意味だろう。
橋の向こう側には、古い石碑が立つ。「何と文政11年の文字が読み取れる」と、ほかのHPにあった。道を回り込むと、第一瀬田橋の東側に出た。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストのデータに、次のとおり登載された。

上井手取水口 かみいで
(菊池)大津町 上井手 石樋門 (5門) 寛永13〜承応元 (1636-52)の間? 歴史の道・豊後街道p.100 樋柱(4本)が良好に残る 下記の「上井手」の取水口 (加藤清正が構想、忠広(清正の子)が元和4(1618)開削に着手、細川忠利に受け継がれて完成/江戸期の用水路としては幅が広く流量が多い/上記の5基の石橋が架かる) 2 A

上井手取入口と閘門(こうもん)  大津町大字瀬田 ( 熊本県 )

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上井手取入口と閘門(こうもん)  大津町大字瀬田

大津町HPの「町の史跡」による説明は、次のとおり。上井手沿いの県道207号により東へ進むと、第一瀬田橋が上井手を渡り、その上流側に「上井手取入口閘門」(上井手頭首工)に入る道がある。

■上井手取入口

白川北岸を潤す用水路の堰です。上流に上井手、下流に下井手の取入口があります。
この内、下井手は奈良初期(和銅年間)肥後国司阿部乙名が開削したと伝えられますが、埋没して遺跡化したといわれています。それを加藤清正が天正17年(1579)改修に着手し、慶長3年(1598)竣工、さらにその子忠広が元和中に補修し完成しました。
上井手は、加藤清正が構想し、忠広が元和4年(1618)に着手し、寛永9年(1632) 引水まで開削して中断されました。加藤氏改易後に入国した細川忠利は、引続き寛永13年(1636)に工事を再開、綱利の代に坪井川まで完工しました。堰口はともに清正秘伝の「銚子口」と伝えられています。
上井手の堰は洪水にしばしば流失し、文政11年(1828)には堰を少し下流に移設しましたが、安政期に大津手永惣庄屋山隈権兵衛が各所に改修を施す時により元の位置に戻され、現在に至っています。明治33年と昭和28年に未曽有の大洪水で破壊され、昭和32年現在の取水口が完成しました。

現地説明板は、次のとおり。

上井手取入口閘門(こうもん)  瀬田上井手

白川北岸平地北半の約700町歩(695ha)の水田を潤していた、用水路の堰です。天正16年(1588)夏、肥後北半を拝領した加藤清正が、その入国にあたり、此処より北の高台の上にあたる二重峠で案内役の西暁坊と白川流域を眺めた時に、「あの草野に水を白川より分流し大津方面まで水を注ぐには、右の瀬田から上流の瀬田山麓に・・・取入口を作りて掘りなせば水かかりべく思はれ候」との提案を受けて構想した用水路の取入口です。
多忙な藩主清正の後を継いだ子忠広が元和4年(1618)から工を起こし、白川が蛇行し始めるここ瀬田山鍋倉の瀬に清正秘伝の「銚子口」の石堰を設け、瀬田・大林と導きましたが、導水の不手際や加藤家改易などあり、寛永9年(1632)に中断しました。同年肥後藩に入国した細川忠利が寛永13年(1636)に工事を再開、大津から菊陽への難工事を経て、次の細川光尚の代に坪井川まで完工したと伝えられています(大津史)。
菊陽原水以西は「堀川」と呼ばれたこの水路は、全域に亘り幾筋もの井樋で南側に分流して稲作の他、各種の産業を興しました。また史料によれば、川舟で米を運ぶ水路として利用されたとも書かれています。江戸中後期からは度々の洪水に見舞われ、特に寛政8年辰の年(1796)、文政11年子の年(1828)の2度の洪水に、この取水口を始めとする各施設が壊され、文政のときこの川下300mのところに閘門が設けられました。
さらに安政期(1855頃)に、大津手永総庄屋山隈権兵衛が上井手の改修に着手、まず①閘門を現位置に設置、②瀬田上の原に山水の逃がし口、③瀬田内山の調節口、④森〜引水の水路を弯曲させた柳塘、⑤引水の吐丹防川の水門、などと瀬田から大津まで井手の改良に務め、水流を安定させました。
現在では、鉄とコンクリートの堰にその役目は譲りましたが、石堰を過ぎる流れは、今も滔々と下って約24km、大津・菊陽・合志の大地460haを潤し、地域の産業・文化を繁栄させる、大きな原動力となっております。
古の恩を今に蒙る史跡です。
平成20年12月20日  大津町教育委員会

「上井手のいしぶみ」にある災害記録は、次のとおり。

災害記録
寛政8年6月9日ヨリ大雨ニテ諸川洪水就中阿蘇根子岳方面ノ降雨ニテ白川出水甚シ熊本府ワ京町山崎町ノ外水浸シトナル此ノ洪水ノタメ田畑15,202町余水損洗崩塘11,958ヶ所310,230間余破損山岸崩9,154ヶ所69,028間潰家2,545戸死者59人瀬田上井手全部破壊
文政11年5月29日ヨリ30日マデ大雨白川1丈1尺菊池川1丈緑川1丈3尺瀬田上井手全部破壊
明治17年7月13日白川氾濫シ堰体補強ノタメ翌18年水工沈床ヲ施行ス
明治33年7月6日〜16日ノ豪雨洪水ニヨリ阿蘇南郷谷ノ堤防悉ク破壊シ上井手堰ノ水門口石垣堰体ノ全部流出
昭和28年6月26日〜28日ノ大雨洪水ニヨリ既往ノ洪水量ヲハルカニウワマワリ護岸堤防ヲ溢流シテ雨岸ノ耕地ヲ洗イ流下スル巨岩流木ニヨッテ瀬田上井手堰ワ痕跡ヲ認メ得ザル程ニ大被害ヲウケタ
昭和55年8月30日ノ集中豪雨ニヨリ瀬田裏方面ノ降雨ニテ瀬田上井手出水甚ダシク北ノ迫ノ堤防決壊水田流出大津山西線県道決裂後迫護岸溢流シ村上製材所木材ハ町内ニ散乱シ多大ノ損害ヲウケタ

上井手(堀川)  大津町瀬田〜大津 ( 熊本県 )

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上井手(堀川)  大津町瀬田〜大津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。上井手取水口などは、次記事とする。

上井手(堀川) かみいで
(菊池)大津町 用水路 全長約24㎞ 寛永13〜承応元 (1636-52)の間 歴史の道・豊後街道p.100 石護岸を一部残す 加藤清正が構想、忠広(清正の子)が元和4(1618)開削に着手、細川忠利に受け継がれて完成/江戸期の用水路としては幅が広く流量が多い/上記の5基の石橋が架かる 2 A

大津町大津の光尊寺橋近くにある説明板は、次のとおり。同場所の疎水百選「上井手用水」の掲載写真は、写真5,6のとおり上流側の瀬田神宮「妙見橋」と桜を写している。

堀川(上井手)
「史蹟 堀川(上井手) 加藤忠広公は父清正公の遺志を継いで元和4年(1618)堀川の開墾に着手、瀬田鍋倉の瀬に取入口を設けて幾多の難所を排除しつつ工事を捗めた。しかし寛永9年没封国除となり、かわって入国した細川忠利公がその遺業を継ぎ、寛永13年(1636)工事を再開、次代光尚公により坪井川まで全長約24kmの堀川が完成。原野変じて大津穀倉地帯の基が礎かれた。このことは肥後三大御倉の一つ大津御倉が置かれたことが如実に物語っている。
以来堀川に沿って集落が形成され大津手永会所の所在地として政治経済の中心地となり、また参勤道の宿場町して繁栄を続けた。往時堀川には流れを利用した水車が20余輪を数え、後に米粉加工による郷土銘菓銅銭糖の誕生をみることになる。当光尊寺は承応2年(1652)に開基された古刹で山門に架る石橋は文化12年(1815)架設で堀川に現存する石橋の代表的な一つである。」
大津町教育委員会