上井手取入口と閘門(こうもん) 大津町大字瀬田
大津町HPの「町の史跡」による説明は、次のとおり。上井手沿いの県道207号により東へ進むと、第一瀬田橋が上井手を渡り、その上流側に「上井手取入口閘門」(上井手頭首工)に入る道がある。
■上井手取入口
白川北岸を潤す用水路の堰です。上流に上井手、下流に下井手の取入口があります。
この内、下井手は奈良初期(和銅年間)肥後国司阿部乙名が開削したと伝えられますが、埋没して遺跡化したといわれています。それを加藤清正が天正17年(1579)改修に着手し、慶長3年(1598)竣工、さらにその子忠広が元和中に補修し完成しました。
上井手は、加藤清正が構想し、忠広が元和4年(1618)に着手し、寛永9年(1632) 引水まで開削して中断されました。加藤氏改易後に入国した細川忠利は、引続き寛永13年(1636)に工事を再開、綱利の代に坪井川まで完工しました。堰口はともに清正秘伝の「銚子口」と伝えられています。
上井手の堰は洪水にしばしば流失し、文政11年(1828)には堰を少し下流に移設しましたが、安政期に大津手永惣庄屋山隈権兵衛が各所に改修を施す時により元の位置に戻され、現在に至っています。明治33年と昭和28年に未曽有の大洪水で破壊され、昭和32年現在の取水口が完成しました。
現地説明板は、次のとおり。
上井手取入口閘門(こうもん) 瀬田上井手
白川北岸平地北半の約700町歩(695ha)の水田を潤していた、用水路の堰です。天正16年(1588)夏、肥後北半を拝領した加藤清正が、その入国にあたり、此処より北の高台の上にあたる二重峠で案内役の西暁坊と白川流域を眺めた時に、「あの草野に水を白川より分流し大津方面まで水を注ぐには、右の瀬田から上流の瀬田山麓に・・・取入口を作りて掘りなせば水かかりべく思はれ候」との提案を受けて構想した用水路の取入口です。
多忙な藩主清正の後を継いだ子忠広が元和4年(1618)から工を起こし、白川が蛇行し始めるここ瀬田山鍋倉の瀬に清正秘伝の「銚子口」の石堰を設け、瀬田・大林と導きましたが、導水の不手際や加藤家改易などあり、寛永9年(1632)に中断しました。同年肥後藩に入国した細川忠利が寛永13年(1636)に工事を再開、大津から菊陽への難工事を経て、次の細川光尚の代に坪井川まで完工したと伝えられています(大津史)。
菊陽原水以西は「堀川」と呼ばれたこの水路は、全域に亘り幾筋もの井樋で南側に分流して稲作の他、各種の産業を興しました。また史料によれば、川舟で米を運ぶ水路として利用されたとも書かれています。江戸中後期からは度々の洪水に見舞われ、特に寛政8年辰の年(1796)、文政11年子の年(1828)の2度の洪水に、この取水口を始めとする各施設が壊され、文政のときこの川下300mのところに閘門が設けられました。
さらに安政期(1855頃)に、大津手永総庄屋山隈権兵衛が上井手の改修に着手、まず①閘門を現位置に設置、②瀬田上の原に山水の逃がし口、③瀬田内山の調節口、④森〜引水の水路を弯曲させた柳塘、⑤引水の吐丹防川の水門、などと瀬田から大津まで井手の改良に務め、水流を安定させました。
現在では、鉄とコンクリートの堰にその役目は譲りましたが、石堰を過ぎる流れは、今も滔々と下って約24km、大津・菊陽・合志の大地460haを潤し、地域の産業・文化を繁栄させる、大きな原動力となっております。
古の恩を今に蒙る史跡です。
平成20年12月20日 大津町教育委員会
「上井手のいしぶみ」にある災害記録は、次のとおり。
災害記録
寛政8年6月9日ヨリ大雨ニテ諸川洪水就中阿蘇根子岳方面ノ降雨ニテ白川出水甚シ熊本府ワ京町山崎町ノ外水浸シトナル此ノ洪水ノタメ田畑15,202町余水損洗崩塘11,958ヶ所310,230間余破損山岸崩9,154ヶ所69,028間潰家2,545戸死者59人瀬田上井手全部破壊
文政11年5月29日ヨリ30日マデ大雨白川1丈1尺菊池川1丈緑川1丈3尺瀬田上井手全部破壊
明治17年7月13日白川氾濫シ堰体補強ノタメ翌18年水工沈床ヲ施行ス
明治33年7月6日〜16日ノ豪雨洪水ニヨリ阿蘇南郷谷ノ堤防悉ク破壊シ上井手堰ノ水門口石垣堰体ノ全部流出
昭和28年6月26日〜28日ノ大雨洪水ニヨリ既往ノ洪水量ヲハルカニウワマワリ護岸堤防ヲ溢流シテ雨岸ノ耕地ヲ洗イ流下スル巨岩流木ニヨッテ瀬田上井手堰ワ痕跡ヲ認メ得ザル程ニ大被害ヲウケタ
昭和55年8月30日ノ集中豪雨ニヨリ瀬田裏方面ノ降雨ニテ瀬田上井手出水甚ダシク北ノ迫ノ堤防決壊水田流出大津山西線県道決裂後迫護岸溢流シ村上製材所木材ハ町内ニ散乱シ多大ノ損害ヲウケタ