龍田の里数木(二里)と道標石  熊本市北区龍田7丁目 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

龍田の里数木(二里)と道標石  熊本市北区龍田7丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストのデータは、次のとおり。県道337号の熊本市北区龍田7丁目、二里木バス停横の一角にある。
後ろの写真は、この一角に一緒に設置している道標石だが、もともとの位置はここではない。付近から移設したとのことである。年代は不明。

龍田の里数木(二里) たつだ
熊本市(北区) <豊後(大津)街道> 一里木 榎(南側1本) 江戸期 WEB/歴史の道・豊後街道p.93 根元が空洞化→保存に成功 豊後(大津)街道に残る唯一の一里木 2 B

熊本市龍田校区まちづくり協議会HPによる説明は、次のとおり。

【歴史ある二里木里数木の保存】
台風シーズンを前に歴史ある二里木の里数木を守れ!
天正16年(1588)熊本城主となった加藤清正は、政治経済、軍事の重要なルートとして豊後街道を整備しました。この街道は、熊本城内・札の辻を起点として、大津、阿蘇の二重峠を越え、内牧、九重を通り、豊後鶴崎に至る道です。
街道には、札の辻を起点として、1里(約4km)毎に塚が設けられ、そこにエノキ等の樹木が植えられました。江戸時代には細川藩主が参勤交代の時に通った路として知られ、また、商業においても多くの人々が行き交ったとされます。 現在、龍田7丁目、熊日新聞販売所の前にある二里木里数木は、豊後街道の一部であった大津街道では里数木として生き残っているただ1本の貴重な木であり、先代の枯死したと思われたエノキが芽を吹き出し、隆々と緑の葉を繁らせています。
しかし 、根元が空洞化しており、台風等の影響を受ければ倒木の恐れがあり、また、通行する人にも被害が及ぶ危険がある為、歴史委員会では、剪定及び支柱等の対策を考えましたが、当委員会の予算では難しく、熊本市当局の方へ相談に行きました。そして、東部土木センター及び龍田まちづくり交流室の協力を得て、この歴史ある里数木を保存することができました。関係各機関の皆様のご協力ありがとうございました。

【二里木道標石の説明】
龍田町上立田字吉ノ平この道標石は、擬灰岩の自然石の石柱で、現高120cm底辺32cmの四角錐に近い形をしている。表上には「1628番」とあり、その下に二行に分けて「右あそ・大分」「左大津・内牧」と大きく刻み、左側面には「等所清水旦次・阿蘇郡甲斐有雄」と刻まれている。
甲斐有雄は阿蘇郡野尻村尾下(現高森町)の石工であるが、旅人の道に迷う者の多いのに心を痛め、文久元年(1861年)から道標石の建設を始め明治10年の西南の最中もその事業を継続した。 県下では阿蘇を中心として上益城・飽詫まで足を延ばし、宮崎県では臼杵郡大分県では直入郡などにも建設し総数1900基にも及んでいたる。尚、甲斐有雄の道標石は、熊本市では現在、この1つしか発見されていない。
2003年8月20日  龍田町まちづくり協議会・歴史委員会