大津町の史跡と文化財マップ 大津町大津・室
大津町HP「町の史跡」による説明は、次のとおり。文化財マップは町中心部(大津・室)のみ載せる。
■大津手永会所跡
旧大津手永(管内51ヶ村)の政治・経済・軍事などを司る細川藩の役所が置かれていました。手永とは「領主が手いっぱいに治め得る区域」という意味で細川藩独特の地方行政区画で、大津手永は現在の大津・菊陽・旭志の3町村をほぼ合わせたぐらいの区域のことです。
ここには、行政・子弟教育・裁判・医療などの施設があり、郡代、惣庄屋のほか、年貢取立てや犯罪取蹄りなどの諸役人が勤務していました。
隣接して北側には御茶屋(所謂本陣)がある他、内外に3箇所の御客屋などもあり、往来する各藩の 高官が宿泊・休憩しました。大津宿の官庁街であります。
もっと北へ登った上大津には、御蔵跡があり、往時は阿蘇郡全部、菊池郡南半の年貢が集まりました。
■大津御茶屋跡
江戸時代の豊後街道往来の折、藩主が宿泊・休憩する施設でした。普通には「本陣」と呼ばれるもので、「御茶屋」とは細川藩独自の名称です。手永会所に隣接していました。構内に御茶屋番宅があり、当番の役人が常時管理に当たっていました。
瓦葺の堂々たる建物で、330坪の敷地内に本屋174坪、別棟75坪部屋数は29あり、其の偉容を誇っていました。道路に面し御門があり、構内には馬舎、番所、詰所、道具蔵などがあり、平素はお茶屋番と言われる役人が近村の人々に公役を割り当て管理していました。
■日吉神社
古くは上大津に「椋天神」として祀られて、合志7天神のひとつとされていたといいます。天保元年(1644年)に近江国坂本の日吉神社を勧請して大字大津の氏神として天神の森に社が建てられ、祭りの奉納相撲が盛大に行われていました。それにならって各地でも相撲が盛んに行われるようになりました。大正11年(1922年)9月に火災で焼失したため、昭和3年(1928年)4月に東嶽城跡の現在地に遷宮されました。大津町の最大の神社で街の総氏神的存在になっています。街を一望するこの地はつつじの名所としても知られています。
■人馬所跡
細川藩が設置した人夫駅馬継所のことを略して人馬所といいます。 ここには約6百坪の広場があって、 豊後街道や上井手を利用した年貢の運搬・早馬などの藩の公役・公用に備えて、 大津・竹迫両手永に割り当てられた人夫が1日に約20人、 駅馬が約30頭常に待機し、 彼らを役人が監督していました。
また年に1・2回、 合志郡代が、 大津の御家人(在住の武士たち)を召集して彼らの日頃の鍛練を試した場所でもあります。
■大津御蔵跡
江戸時代、大津手永の全域、竹迫手永の一部、及び阿蘇郡全部からの上納年貫米を格納する細川藩の年貢の倉庫です。
この様な「御蔵」は大津の他、川尻・高瀬などに建てられていました。大小二棟の御蔵の一棟は幅10間、長さ96間あり、二棟に蔵入れする年貢米は毎年7万石、16万俵にのぼったといわれています。
旧10月末より11月中にかけて農民が年貢を納める「御蔵払」の期間は、上大津より仲町にかけて人馬雑踏の賑わいを呈しました。御蔵前の住民のほとんどがこの御蔵に関連した生計を営む者で、上大津の町並みができていました。
■室簀戸口門跡
藩主の通行前後の臨時 関所の跡です。簀(すだれ)は男竹、直径1寸5分(約4.5メートル)の真竹で、高さ2間(約2.8メートル)に編んだ2枚を左右に立て簀戸守が警戒に当たりました。
■五里木跡
豊後街道には、熊本城から一里毎に里程を示す木が植えられています。その五里を示す木が、上大津の桜山にありました。この桜山の「五里木」一帯は、街道筋室附近の「八丁桜馬場」の桜の木を育成したところで、花見の場所もなっていました。
また、藩主参勤の折、大津の人々が行列を出迎える「殿様拝み」の場所は、この地より東側と定めてありました。ちなみに、四里木は菊陽町南方、六里木は新小屋、七里木は古城峠にあります。