月別アーカイブ: 2015年6月

大津町役場前の道路元標  大津町大津 ( 熊本県 )

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大津町役場前の道路元標  大津町大津

大津町役場玄関前の左側に残る。正面「大津町道路元標」、右面「熊本縣菊池郡大津町字大津一二三三番地」と刻む。
左面・裏面の刻字は写さなかったが、1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていたので、この時代の道路元標だろう。大津町のは、HPに表れないため記録しておく。
ウィキペディアフリー百科事典による「道路元標」の説明は、次のとおり。
3枚目の写真は、熊本県道30号大津植木線の通り。

道路元標

道路元標(どうろげんぴょう)とは道路の起終点を示す標識である。

変遷
日本では1873年(明治6年)12月20日政府は 太政官日誌により各府県ごと「里程元標(りていげんぴょう)」を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じている[1][2][3]。1911年(明治44年)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた[3]。

設置場所は府県知事が指定することとされており、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。東京市に限っては旧道路法施行令によって日本橋の中央に設置することと定められていた。道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていた。

現行の道路法では道路元標は道路の附属物とされているだけで特段の規定はなく、道路の起終点は道路元標と無関係に定められている。道路元標の設置義務がないため、取り壊されたり工事などでいつの間にかなくなってしまった道路元標も少なくない。

岩 下 橋  菊池市大字四町分字岩下 ( 熊本県 )

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岩 下 橋  菊池市大字四町分字岩下

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道325号菊池市街の南東から県道201号に入る。5.5km先、岩下交差点の右手奥「岩平橋」の下に残っている。

岩下橋 いわした
菊池市 <廃道>/河原川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長10.9m,S9.0m(A),幅2.9m 文政8(1825) WEB(石橋) 保存状態良好 石工:備前の勘五郎(棟梁)・茂吉/橋を渡った所に、馬頭観音が祀られている 2 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,225  岩下橋
菊池市大字四町分字岩下
河原川
橋長:10.9m  橋幅:2.9m  径間:9.0m
架設:明治5年(1872)
県道325号線、河原小学校付近から県道201号線へ、5.5Km先右手、岩平橋の下に架かっています。
新橋の下にあります。

古川兵戸井手  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原 ( 熊本県 )

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古川兵戸井手  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。私は参考文献を調べていないので、正確に説明できないが、「古川井手」取水口と思われる現在の国道387号沿い菊池川上流にある古川発電所あたりから水路を辿って下り撮影した。
熊本県HP掲載の「■水をめぐる争い」にある写真の場所は、撮影写真4,5枚目のところである。この先の途中は訪ねていない。
次に「■その後 古川井手由来碑・水分神碑」の場所を訪ねた。「戸豊水村を見下ろす北浦」というところの高台である。菊池市街立町交差点から国道387号に入る。菊池公園上部の豊間には、現在「菊池台地用水土地改良区」事務所がある。
「由来碑・水分神碑」の場所は、国道のまだ先で大柿交差点から左折して納骨堂がある高台まで上がる。ここに菊池遺産「古川兵戸井手」と由来碑の説明板があった。撮影写真は、10枚目以降である。

旧・古川兵戸井手 ふるかわひょうど
菊池市 菊池川 用水路 文化13(1816)→天保8(1837) 市教委/WEB 部分的に残存(非C水路) 五島五郎衛門→平山八左衛門(取水口を拡大)/素掘トンネルが幾つか残る 4 C

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化 > 県北 > 建造物 > による説明は、次のとおり。

古川兵戸井手(ふるかわひょうどいで) 菊池市
所在地  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原
解説

■平野井手の開設と五島五郎衛門
文化9年(1812年)、河原手永大柿村と平野村の庄屋・五島五郎右衛門は、村の零落した生活を改善したいと願い、かねてより練り上げていた計画を実行に移しました。それは台地上の畑地を水田に変えるため、菊池川の上流から水を取り入れ、台地上に長い井手(いで、用水路のこと)を建設することでした。
五郎右衛門が練り上げた計画は、惣庄屋を通じて藩に提出した「平野井手開設願」で知ることができます。台地よりはるか下を流れる菊池川から飲み水を運び上げる苦労や、干ばつ時の生活状況のひどさを示し、用水路の必要性を訴えると共に、増加する水田面積や生産高を予想し、工事設計の絵図面や事業費の見積帳を添えています。
五郎右衛門がこのような詳細な計画を立てた背景には、五郎右衛門が庄屋となる前に、この構想が持ち上がりながら見送りになった経緯があったからだといわれています。
「五島五郎右衛門顕彰碑」によれば、五郎右衛門は現在の菊池市河原地区の生まれです。子供のころから学問に優れ、元服後すぐに手永会所の見習いとなり、庄屋になるまでの約20年間、手永会所や郡代詰所の役人として勤務しました。
こうして、願い出た翌年に藩の許可が得られ、3年後の文化13年(1816年)に完成しました。井手には、いくつもトンネルが掘られ、その総延長は計画時の2倍を越える約30kmになり、新田数十町が開かれました。

■水をめぐる争い
平野井手は菊池川沿いの「古川」という場所に取水口があるところから、「古川井手」とよばれるようになりますが、この地はもっとも上流の取水口でした。つまり、干ばつの年にも有利に水を利用することができます。
このため、すぐ下流にある大場堰を取水口とする原井手を利用する村々、また菊池川から水を引く下流域の河原手永や深川手永の村々にとって重大な問題となりました。
これらの村々は水利用の優先権を持つため、平野井手は完成したものの、取り入れ口は幅60cm、深さ30cmと制限され、畑に使用する水は飲料水の余りでまかなうなど、さまざまな制約を受けました。
もっとも下手の大柿村に到達するころにはわずかな水量になっていて、降雨がなければ水が余らなかったといわれています。

そして、もっとも過酷な制約は、干ばつの年に川下の村々が乾田になった場合、井手口をふさいで飲料水だけ通し、降雨があって水が増えたら井手口を開けるが、それまで平野村では手を触れてはならない、というものでした。干ばつに備えた五郎右衛門の計画でしたが、水に対する農民の厳しい考え方の前に、妥協せざるを得なかったようです。
平野井手開通の2年後、文政元年(1818年)には早くも干ばつがやってきました。百年に1回といわれた大干ばつで、河原・深川両手永一円に菊池川の水をめぐる大規模な騒動が発生しました(文政の水喧嘩)。
もちろん、平野井手の取水口がふさがれたことはいうまでもありません。しかし、皮肉なことに、この大干ばつが五郎右衛門が思い描いた平野井手に近づくために大きな貢献をすることになりました。

■戸豊水村庄屋・平山八左衛門
文政元年(1818年)の大干ばつ後、東迫間村と戸豊水(とりうず)村兼任の庄屋となった平山八左衛門は、「文政の水喧嘩」のときに、もっとも大きな騒動の舞台となった東迫間村の庄屋を務めていました。郡代や深川手永惣庄屋と共に謹慎処分を受けましたが、農民531名に対して申し渡された処罰はそれ以上に過酷なものでした。
平野井手の水量を増やす抜本的な計画を作る必要を感じ、数年にわたって計画を練ったことが知られています。八左衛門は、迫間眼鏡橋を資金集めから施工までの世話を自分で行うほど有能な庄屋であり、その計画は五島五郎右衛門以上に詳細なものであったことが古文書から知ることができます。

■夢のような「兵藤(兵戸)井手」建設計画 
八左衛門が作った計画は、当時の感覚からいえば実現困難なものでした。それは現在の大分県、当時は幕府の領地であった上津江川原村笹原を流れる川原川(筑後川上流)に堰(せき)をつくり、井手を引き、兵戸峠(とうげ)を6つのトンネルで越え、菊池川に水を流すことでした。
つまり、八左衛門は菊池川の水量そのものを増やし、平野井手を大きく改修し、戸豊水村まで井手を延長する計画でした。その増えた分の水利権を主張し、井手に課せられた制約を取り除こうと考えました。
この計画は、急な斜面に井手を掘り、長いトンネルを通し、トンネルの出口と古川の取水口で水量を量らなければならないという技術的な問題も抱えていましたが、幕領であった上津江川原村を治める日田代官所を通して幕府の許可を得るという大きな壁が立ちはだかりました。

■古文書からわかる八左衛門の苦労
現在、菊池神社宝物館に保管してある「戸豊水文書」や菊池市西迫間の平山家に残る「平山家文書」には「兵藤井手」の計画立案から完成までの経過が記録されています。
これらによると、文政10年(1827年)に幕府から許可され、天保8年(1837年)の古川取入口完成まで、10年間にわたる工事の苦労とともに、すでに文政5年(1822年)ごろから、上津江や手永内の村々、郡や藩役人、日田代官所との交渉や調整が始まり、工事完成まで続いたことがわかります。
有能な技術者でもあった八左衛門ですが、峠付近の風化した花崗岩(かこうがん)地盤のもろさにはどうしようもなく、当初の計画を大幅に変更せざるを得なくなりました。このような工事の遅れ、交渉などの気苦労は計り知れないものだったと思われ、「兵藤井手」完成の翌年に八左衛門は亡くなっています。

■その後
古川井手由来碑・水分神碑
兵藤井手完成後、戸豊水村を見下ろす北浦には井手で掘削された石、兵戸峠のトンネルで掘削された石、それに古川取水口を新しくしたときに掘削した石の3つを御神体とする「水分神碑」と「古川兵戸井手由来碑」が建立されました。
その後、平野井手は古川・兵藤・戸豊水をとって「古川兵戸井手」とよばれるようになりました。井手は183町(約183ha)の面積を水田に変え、改修や上津江村との水使用の合意を経て、昭和32年(1957年)まで使用されましたが、上津江村との協定は更新されず、菊池市は分水権を放棄しました。
上津江村からの分水はなくなりましたが、現在でも古川兵戸井手は、国土交通省が新たに造った菊池川の立門揚水場から台地に水を送り続けています。取入口の大きさは八左衛門が苦労して大きくしたときの規格が守られており、平野井手の時代に戻ることはありませんでした。

参考文献
菊池市史編さん委員会 編 『菊池市史 下巻』  菊池市 1986年
建設省菊池川工事事務所 編・発行 『菊池川 菊池川流域見聞録』

原 井 手  菊池市下河原 ( 熊本県 )

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原 井 手  菊池市下河原

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化 > 県北 > 建造物 > による説明は、次のとおり。菊池市では、築地井手などとともに、歴史がある井手だったので、下河原台地に上がり水路を辿って、菊池川上流の取水口「大場堰」まで訪ねてみた。
参考文献は調べていないので、私の撮影写真は理解間違いがあるかも知れない。熊本県HP写真の分水路の場所は、どこかわからなかった。

原井手(はるいで) 菊池市

所在地  菊池市下河原(しもがわはる)
利用案内 駐車場・トイレ   なし
解説

■河原手永惣庄屋・河原杢左衛門の思い
河原地区は菊池市街地の東南部に位置し、阿蘇の溶結した火砕流堆積物(阿蘇溶岩)が台地として厚く堆積しているため、河原川の浸食が広がらず、台地上の畑を水で潤すことができませんでした。
そのため、河原の人びとのくらしは大変厳しく、河原手永惣庄屋・河原杢左衛門(もくざえもん)はどうにかして水を引かねばと考え、河原より高い場所を流れる菊池川上流の大場に堰(せき)を造り、水路を引く計画をたてました。

■熊本藩ではじめて水路トンネルを用いた用水路
手作業での工事はさまざまな困難があり、測量技術も現在のように進んでいなかったため、夜間、提灯に明かりをともし、その明かりをたよりに微妙な高低差をとりつつ下流に向かって工事を進めたといわれています。
このようにして、元禄11年(1698年)2月に掘り始めた原井出は、4年余りの歳月を経て元禄14年(1701年)5月に完成しました。井手の総延長は11kmにおよび、これにより210町(210ha)の水田を潤すことができるようになりました。
この工事では、250間(550m)にもおよぶ水路トンネルが造られており、熊本藩最古のものとして技術史上重要であるといわれています。

■水をめぐる工夫と決まり
写真に見られるように、分水を行う場合、土地の広さに応じて分水できるように、分水前の水路は、直線にして同じ速さで同じ量の水が流れるように工夫がしてあったり、水がよどむことを防ぐために段差を設けて、水に勢いをつけたり、その場合、水の勢いで井手の底をえぐって水が漏れたりしないように、石を敷き詰めておく、などの工夫が行われています。
水の利用に関しても厳しい使用の決まりがあったそうです。水を引く期間も話し合いで決まっており、下流の方では、水を自分の田に引けるのが午後遅くになってからということで、田植えを夜から真夜中にかけて行うことが普通のことであったそうです。
また、上流の水源地区と河原地区では、水利権をめぐってたびたび争いもあったといわれています。現在でも、水源地区と河原地区では、年始や田植え見舞いなどを互いに行い、コミュニケーションをしっかりとり、交互に河原杢左衛門を祭る神事を行っています。

参考文献
菊池市史編さん委員会 『菊池市史 下巻』 菊池市 1986年

この情報に関連する情報
高島船着場
築地井手
古川兵戸井手

相 生 橋  菊池市大字亘 ( 熊本県 )

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相 生 橋  菊池市大字亘

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から県道23号を菊池川の中州「菊池ふれあい清流公園」入口まで進む。県道反対側に「相生橋」1連のみが公園化されて残る。
下流側にある文政8年相生橋本俣側起工記念碑は、どこにあるかわからなかった。

相生橋 あいおい
菊池市 <廃道>/菊地川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長9.8m(A),幅5m 嘉永5(1852) 市教委 /WEB(石橋) 拡幅のため石橋は真下からしか見られない→下流側中州に残骸として残る 石工:卯助・卯一・丈八(後の橋本勘五郎)/架橋当時は2連+1連+2連の計5連の連続石橋だったが流失し、中央中洲の1連のみ残る 4 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,226  相生橋
菊池市大字亘
菊池川
橋長:9.8m  橋幅:5.0m  径間:   拱矢:
架設:嘉永5年(1852)
国道387号線菊池市正観寺から県道23号線へ、800m南下右手に廃橋となっています。

オリジナルは5連アーチだったそうです。
両側はRC拡幅されています。
下流側にある記念碑
文政8年相生橋本俣側起工記念碑

龍 門 橋  菊池市龍門 ( 熊本県 )

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龍 門 橋  菊池市龍門

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。菊池市街から国道387号または県道133号を北進。龍門ダム近くの龍門小学校前へ下る。下流側にさらに進むと「寺小野橋」(写真2〜5)から下流側に「龍門橋」が見えるで、橋を渡り対岸通りの「龍門橋」説明板がある下り口まで行く。

№251  龍門橋
菊池市龍門(りゅうもん)
迫間川
橋長:22m  橋幅:4.3m
架設:明治22年(1889)
雪野橋より県道133号線をさらに1.4Km進み、龍門小学校の矢印があるところを左の道路に分岐、約600m下ると左下に龍門発電所があります。車を止め、徒歩。
錆付いた鉄製の階段を下りて写しました。この階段は危険度99%、そのうち朽ちて落ちるでしょう。
寺小野バス停付近の新橋から下流側に見えます。

虎 口 橋  菊池市龍門字虎口 ( 熊本県 )

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虎 口 橋  菊池市龍門字虎口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から県道133号を北進。龍門ダム近く虎口交差点から左折。下へ下って行くと迫間川に架かる。
橋手前のガードレールの間から、竹林斜面を下ると川底に降りられた。

虎口橋 こく
菊池市 一般道/迫間川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長25.3m,S15.9m(A),幅4.25m 嘉永3(1850) 市教委 /WEB(石橋) 高欄C化/雑草放置/アーチ部接近困難 石工:伊助・幸兵衛・仙左衛門 3 B

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№252  虎口橋
菊池市龍門字虎口(こく)
迫間川
橋長:25.3m  橋幅:4.25m
架設:嘉永3年(1850)
龍門橋から県道133号線に戻り、龍門ダム方面へ約1.5Km、虎口入口バス停より左下の道路へ分岐して進みます。そぐにこの橋です。
下に降りられそうになかったので、上から。 奥に架橋記念碑。

綿 打 橋  菊池市豊間 東迫間 ( 熊本県 )

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綿 打 橋  菊池市豊間 東迫間

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から県道133号を北進。西迫間交差点から左折。旧道に出たところで東側からの川に架かる。

綿打橋 わたうち
菊池市 一般道 石アーチ橋 (凝灰岩) 長9.8m,S7.7m(A),幅2.2m →4.2m 文政9(1826) 市教委
/WEB(石橋) 上流側を拡幅(昭和2)→Cで再拡幅 石工:栄八/迫間橋架設の試験台として施工されたとの由来も 3 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№249  綿打(わたうち)橋
菊池市豊間 東迫間
橋長:9.8m  橋幅:2.2m  径間:7.7m  拱矢:2.6m  環厚:43cm
架設:文政9年(1826)
昭和2年拡幅
迫間橋より旧道を北に100m位進んだところに架かっています。

上流部はコンクリートで拡幅してあります。現役の橋です。
右側が文政9年作、左側が昭和2年作。

迫 間 橋  菊池市西迫間 ( 熊本県 )

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迫 間 橋  菊池市西迫間

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。菊池市街から県道133号を北進。迫間交差点から左折して迫間川沿いの旧道に入ると、上流にすぐ見える

№248  迫間橋
菊池市西迫間(はざま)
迫間川
橋長:36.4m  橋幅:4m  高さ:10m
架設:文政2年(1829)
菊池市、菊池神社から県道133号線を約500m北進、左手の道に入ってすぐ見えます。

迫間橋
「眼下の迫間川渓谷を跨ぐこの石造眼鏡橋は、隈府町及び豊間方面と西迫間、小木村を結ぶ重要な橋で、長年の要望にこたえ文政12年(1829)完成した。碑名には惣庄屋石渕七郎右衛門、庄屋 打出市郎兵衛、世話方庄屋 平山八左衛門、総入目寸志(総工費出資)田尻藤七郎、石工 伊助と刻まれている。
長さ36.4m、幅4m、高さ10m、文政年間では熊本最大の石造眼鏡橋で、当時この技術を持つ者は八代郡種山村の三五郎一族だけとされていたが、この橋の石工は西迫間村の伊助であった。この橋のアーチは扁平で拱環(半円部の輪石)も種山式に比べ薄く独特のものであるが、激しい諸車の通行にもかかわらずよく百六十年の風雪に耐え、川面に写る景観は諸人の眼を楽しませている。
なお、碑文「迫間橋」は、隈府町の学者 城野静軒の筆である。」
菊池市教育委員会

築地井手  菊池市隈府 ( 熊本県 )

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築地井手  菊池市隈府

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。私は菊池市役所手前から築地井手の水路を辿り、九州電力発電所がある付近の菊池川取水堰(築地堰)まで遡った。
2枚目写真の「地域用水環境整備事業 築地井手」碑がある場所は、菊池グランドホテルすぐ先である。 

築地井手 ついじ
菊池市 菊池川 用水路 慶長年間(1596-1615) 市教委/WEB 水路に一旦蓋をしたが、水路び一部を修景再生(平成2-7) 加藤清正起源とされているのは800mほど。下流側は、より以前の城・空堀跡の再利用/菊池川水系最古の井手 3 C

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化 > 県北 > 建造物 > による説明は、次のとおり。

築地井手(ついじいで) 菊池市
所在地  菊池市隈府(わいふ)
利用案内 駐車場・トイレ   なし
解説

■広大な平野をうるおす井手
菊池川と迫間(はざま)川は隈府(わいふ)を南北にはさむように山間部から平野に流れ出ます。そして、菊池平野の北と南を西に向かい、菊池市七城町と山鹿市鹿本町の境界で合流します。この隈府と迫間川、菊池川に囲まれた広大な三角地帯が江戸時代、全国にその名をとどろかせた肥後米(注1)の主要な産地となった地帯です。
この三角地帯の水田には、もちろん迫間川や菊池川の水が使用されます。その方法は、供給地域の最も標高の高いところに井手(水路)を引き、そこから低いところにある各水田に水を供給するものです。
このため井手を流れる水は、より標高の高い川の上流に造られた取水口から取り入れることになりますが、川から離れた地域や川との高低差が大きい地域では、上流から延々と井手をつくることになります。しかも、水が緩やかに流れるために低い傾斜になるように工夫しなければならず、井手をつくるために高い技術を必要としました。
このような井手が、この広大な三角地帯にはいくつもつくられています。菊池川流域に3か所、迫間川流域にも3か所つくられ、もっとも古い時代に、またもっとも上流域につくられたのが築地井手です。
(注1) 江戸時代、大坂市場(堂島)に出荷された米は播州米、備州米と並び、市場の横綱格として「肥後米」とよばれ、その年の米相場を決定する基準米とされました。

■清正がつくった?築地井手
菊池川水系最古の井手といわれる築地井手は、加藤氏が肥後を統治していた慶長年間(1596〜1615年)に築かれたとされています。これは寛政6年(1794年)、隈府の儒学者・渋江公正(松石)が執筆した「菊池風土記」(注2)に記載されています。
「菊池風土記」には、井手によって水が供給される地域も書かれ、隈府の南側の村落名と共に神来(おとど)や野間口(のまぐち)など、隈府の西側で迫間川がすぐ近くを流れる地域まで含まれています。そして、その水田面積は228町(228ha)とされています。
築地井手は『菊池郡誌』に「隈府町の東端 字築地より菊池川を分水したる溝渠を築地井手と称す」と記されているように、築地に取水口を設け、隈府の南側を通るように井手がつくられています。現在の正観寺付近で二手に分かれ、南側を通る井手は、その後に掘られたもので新堀井手とよばれています。
(注2) 渋江松石が菊池地方の自然や文化の代表的な素材188か所を取り上げ紹介した著書。

■家事などにも使われた用水
新堀井手は、人びとが家の前で顔を洗い、米をとぎ、食器をすすいだりと家事で使ったり、昔はわらぶき屋根で火事が多く、防火用水としての役割もありました。また、学校帰りの子どもたちが井手に足を浸し、一時の涼を得るなど、身近に井手の流れを感じることができたそうです。
戦後、温泉の発見により、温泉の残り湯などの流入や都市化に伴い、一時、井手の水はよどんで、ひどいにおいがするようになりました。また、道路の整備拡張により、井手にコンクリートのふたがかぶせられました。このような時代の流れのなかで、築地井手はやがて忘れ去られていきました。
しかし、自然を取り込み、潤いのある街作りをしようという菊池市の取り組みのなかで、昔の井手を取り戻そうという動きが高まり、新堀井手の周辺の整備を行うと共に、下水道の整備を進め、美しい水路がよみがえりました。

参考文献
菊池市史編さん委員会 編 『菊池市史 下巻』 菊池市 1986年