原 井 手  菊池市下河原 ( 熊本県 )

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原 井 手  菊池市下河原

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化 > 県北 > 建造物 > による説明は、次のとおり。菊池市では、築地井手などとともに、歴史がある井手だったので、下河原台地に上がり水路を辿って、菊池川上流の取水口「大場堰」まで訪ねてみた。
参考文献は調べていないので、私の撮影写真は理解間違いがあるかも知れない。熊本県HP写真の分水路の場所は、どこかわからなかった。

原井手(はるいで) 菊池市

所在地  菊池市下河原(しもがわはる)
利用案内 駐車場・トイレ   なし
解説

■河原手永惣庄屋・河原杢左衛門の思い
河原地区は菊池市街地の東南部に位置し、阿蘇の溶結した火砕流堆積物(阿蘇溶岩)が台地として厚く堆積しているため、河原川の浸食が広がらず、台地上の畑を水で潤すことができませんでした。
そのため、河原の人びとのくらしは大変厳しく、河原手永惣庄屋・河原杢左衛門(もくざえもん)はどうにかして水を引かねばと考え、河原より高い場所を流れる菊池川上流の大場に堰(せき)を造り、水路を引く計画をたてました。

■熊本藩ではじめて水路トンネルを用いた用水路
手作業での工事はさまざまな困難があり、測量技術も現在のように進んでいなかったため、夜間、提灯に明かりをともし、その明かりをたよりに微妙な高低差をとりつつ下流に向かって工事を進めたといわれています。
このようにして、元禄11年(1698年)2月に掘り始めた原井出は、4年余りの歳月を経て元禄14年(1701年)5月に完成しました。井手の総延長は11kmにおよび、これにより210町(210ha)の水田を潤すことができるようになりました。
この工事では、250間(550m)にもおよぶ水路トンネルが造られており、熊本藩最古のものとして技術史上重要であるといわれています。

■水をめぐる工夫と決まり
写真に見られるように、分水を行う場合、土地の広さに応じて分水できるように、分水前の水路は、直線にして同じ速さで同じ量の水が流れるように工夫がしてあったり、水がよどむことを防ぐために段差を設けて、水に勢いをつけたり、その場合、水の勢いで井手の底をえぐって水が漏れたりしないように、石を敷き詰めておく、などの工夫が行われています。
水の利用に関しても厳しい使用の決まりがあったそうです。水を引く期間も話し合いで決まっており、下流の方では、水を自分の田に引けるのが午後遅くになってからということで、田植えを夜から真夜中にかけて行うことが普通のことであったそうです。
また、上流の水源地区と河原地区では、水利権をめぐってたびたび争いもあったといわれています。現在でも、水源地区と河原地区では、年始や田植え見舞いなどを互いに行い、コミュニケーションをしっかりとり、交互に河原杢左衛門を祭る神事を行っています。

参考文献
菊池市史編さん委員会 『菊池市史 下巻』 菊池市 1986年

この情報に関連する情報
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築地井手
古川兵戸井手