古川兵戸井手  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原 ( 熊本県 )

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古川兵戸井手  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。私は参考文献を調べていないので、正確に説明できないが、「古川井手」取水口と思われる現在の国道387号沿い菊池川上流にある古川発電所あたりから水路を辿って下り撮影した。
熊本県HP掲載の「■水をめぐる争い」にある写真の場所は、撮影写真4,5枚目のところである。この先の途中は訪ねていない。
次に「■その後 古川井手由来碑・水分神碑」の場所を訪ねた。「戸豊水村を見下ろす北浦」というところの高台である。菊池市街立町交差点から国道387号に入る。菊池公園上部の豊間には、現在「菊池台地用水土地改良区」事務所がある。
「由来碑・水分神碑」の場所は、国道のまだ先で大柿交差点から左折して納骨堂がある高台まで上がる。ここに菊池遺産「古川兵戸井手」と由来碑の説明板があった。撮影写真は、10枚目以降である。

旧・古川兵戸井手 ふるかわひょうど
菊池市 菊池川 用水路 文化13(1816)→天保8(1837) 市教委/WEB 部分的に残存(非C水路) 五島五郎衛門→平山八左衛門(取水口を拡大)/素掘トンネルが幾つか残る 4 C

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化 > 県北 > 建造物 > による説明は、次のとおり。

古川兵戸井手(ふるかわひょうどいで) 菊池市
所在地  菊池市豊間〜雪野〜重味〜原
解説

■平野井手の開設と五島五郎衛門
文化9年(1812年)、河原手永大柿村と平野村の庄屋・五島五郎右衛門は、村の零落した生活を改善したいと願い、かねてより練り上げていた計画を実行に移しました。それは台地上の畑地を水田に変えるため、菊池川の上流から水を取り入れ、台地上に長い井手(いで、用水路のこと)を建設することでした。
五郎右衛門が練り上げた計画は、惣庄屋を通じて藩に提出した「平野井手開設願」で知ることができます。台地よりはるか下を流れる菊池川から飲み水を運び上げる苦労や、干ばつ時の生活状況のひどさを示し、用水路の必要性を訴えると共に、増加する水田面積や生産高を予想し、工事設計の絵図面や事業費の見積帳を添えています。
五郎右衛門がこのような詳細な計画を立てた背景には、五郎右衛門が庄屋となる前に、この構想が持ち上がりながら見送りになった経緯があったからだといわれています。
「五島五郎右衛門顕彰碑」によれば、五郎右衛門は現在の菊池市河原地区の生まれです。子供のころから学問に優れ、元服後すぐに手永会所の見習いとなり、庄屋になるまでの約20年間、手永会所や郡代詰所の役人として勤務しました。
こうして、願い出た翌年に藩の許可が得られ、3年後の文化13年(1816年)に完成しました。井手には、いくつもトンネルが掘られ、その総延長は計画時の2倍を越える約30kmになり、新田数十町が開かれました。

■水をめぐる争い
平野井手は菊池川沿いの「古川」という場所に取水口があるところから、「古川井手」とよばれるようになりますが、この地はもっとも上流の取水口でした。つまり、干ばつの年にも有利に水を利用することができます。
このため、すぐ下流にある大場堰を取水口とする原井手を利用する村々、また菊池川から水を引く下流域の河原手永や深川手永の村々にとって重大な問題となりました。
これらの村々は水利用の優先権を持つため、平野井手は完成したものの、取り入れ口は幅60cm、深さ30cmと制限され、畑に使用する水は飲料水の余りでまかなうなど、さまざまな制約を受けました。
もっとも下手の大柿村に到達するころにはわずかな水量になっていて、降雨がなければ水が余らなかったといわれています。

そして、もっとも過酷な制約は、干ばつの年に川下の村々が乾田になった場合、井手口をふさいで飲料水だけ通し、降雨があって水が増えたら井手口を開けるが、それまで平野村では手を触れてはならない、というものでした。干ばつに備えた五郎右衛門の計画でしたが、水に対する農民の厳しい考え方の前に、妥協せざるを得なかったようです。
平野井手開通の2年後、文政元年(1818年)には早くも干ばつがやってきました。百年に1回といわれた大干ばつで、河原・深川両手永一円に菊池川の水をめぐる大規模な騒動が発生しました(文政の水喧嘩)。
もちろん、平野井手の取水口がふさがれたことはいうまでもありません。しかし、皮肉なことに、この大干ばつが五郎右衛門が思い描いた平野井手に近づくために大きな貢献をすることになりました。

■戸豊水村庄屋・平山八左衛門
文政元年(1818年)の大干ばつ後、東迫間村と戸豊水(とりうず)村兼任の庄屋となった平山八左衛門は、「文政の水喧嘩」のときに、もっとも大きな騒動の舞台となった東迫間村の庄屋を務めていました。郡代や深川手永惣庄屋と共に謹慎処分を受けましたが、農民531名に対して申し渡された処罰はそれ以上に過酷なものでした。
平野井手の水量を増やす抜本的な計画を作る必要を感じ、数年にわたって計画を練ったことが知られています。八左衛門は、迫間眼鏡橋を資金集めから施工までの世話を自分で行うほど有能な庄屋であり、その計画は五島五郎右衛門以上に詳細なものであったことが古文書から知ることができます。

■夢のような「兵藤(兵戸)井手」建設計画 
八左衛門が作った計画は、当時の感覚からいえば実現困難なものでした。それは現在の大分県、当時は幕府の領地であった上津江川原村笹原を流れる川原川(筑後川上流)に堰(せき)をつくり、井手を引き、兵戸峠(とうげ)を6つのトンネルで越え、菊池川に水を流すことでした。
つまり、八左衛門は菊池川の水量そのものを増やし、平野井手を大きく改修し、戸豊水村まで井手を延長する計画でした。その増えた分の水利権を主張し、井手に課せられた制約を取り除こうと考えました。
この計画は、急な斜面に井手を掘り、長いトンネルを通し、トンネルの出口と古川の取水口で水量を量らなければならないという技術的な問題も抱えていましたが、幕領であった上津江川原村を治める日田代官所を通して幕府の許可を得るという大きな壁が立ちはだかりました。

■古文書からわかる八左衛門の苦労
現在、菊池神社宝物館に保管してある「戸豊水文書」や菊池市西迫間の平山家に残る「平山家文書」には「兵藤井手」の計画立案から完成までの経過が記録されています。
これらによると、文政10年(1827年)に幕府から許可され、天保8年(1837年)の古川取入口完成まで、10年間にわたる工事の苦労とともに、すでに文政5年(1822年)ごろから、上津江や手永内の村々、郡や藩役人、日田代官所との交渉や調整が始まり、工事完成まで続いたことがわかります。
有能な技術者でもあった八左衛門ですが、峠付近の風化した花崗岩(かこうがん)地盤のもろさにはどうしようもなく、当初の計画を大幅に変更せざるを得なくなりました。このような工事の遅れ、交渉などの気苦労は計り知れないものだったと思われ、「兵藤井手」完成の翌年に八左衛門は亡くなっています。

■その後
古川井手由来碑・水分神碑
兵藤井手完成後、戸豊水村を見下ろす北浦には井手で掘削された石、兵戸峠のトンネルで掘削された石、それに古川取水口を新しくしたときに掘削した石の3つを御神体とする「水分神碑」と「古川兵戸井手由来碑」が建立されました。
その後、平野井手は古川・兵藤・戸豊水をとって「古川兵戸井手」とよばれるようになりました。井手は183町(約183ha)の面積を水田に変え、改修や上津江村との水使用の合意を経て、昭和32年(1957年)まで使用されましたが、上津江村との協定は更新されず、菊池市は分水権を放棄しました。
上津江村からの分水はなくなりましたが、現在でも古川兵戸井手は、国土交通省が新たに造った菊池川の立門揚水場から台地に水を送り続けています。取入口の大きさは八左衛門が苦労して大きくしたときの規格が守られており、平野井手の時代に戻ることはありませんでした。

参考文献
菊池市史編さん委員会 編 『菊池市史 下巻』  菊池市 1986年
建設省菊池川工事事務所 編・発行 『菊池川 菊池川流域見聞録』