深堀の散策 (1)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (1)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  2 (1)江藤新平未亡人居住の屋敷跡(前バス終点1丁目462,464)
江藤新平は明治7年、佐賀の乱に失敗後薩摩の西郷隆盛を頼り薩摩に赴き、後土佐の板垣退助のもとに走ったが、捕えられ斬罪梟首の刑を受けた。未亡人千代子は此の屋敷に居住していた。其の家は約40坪位で8部屋あり、中2階の1室もあった。玄関前左手に殿様竹、右に藤棚、周囲には梅柿蜜柑の古木があり、海岸には老松があった。

写真  3〜  5 (2)御 船 手(1丁目460)
佐賀藩海軍の施設があった処である。元来、長崎は日本の唯一の開港場であつた関係上、外国船の入港も多く従って之が警備のため、佐賀藩、黒田藩が1年交替で長崎御番の任につき、佐賀藩の当番年には本藩家老(深堀の領主)が之に当り、記録によれば寛永年中(1631年)以降である。又沖波に対して、埋立前は殿様石垣が約100m位防波堤としてあった。その左側の石垣(永江)は当時のまゝである。日本博愛社は日本赤十字社の前身で、西南の役に多数の官賊の負傷者を見て、其の必要を痛感し博愛社を創った佐野常民が、此処で日本最初の蒸気船を作った処でもあるが、その結果は芳しくなかった。

写真  なし    (3)薬園、茶園跡(1丁目321,320附近)  略
写真  なし    (4)煉瓦がま跡(1丁目543附近一帯)  略
写真  なし    (5)江口宗喜屋敷跡  略

写真  6〜 11 (6)円 成 寺(3丁目66)
浄土真宗の寺で、創建は記録にないので判然としないが、吊鐘の記録に依れば6世代に鋳造し、寛保3年(1746年)とある処より、今より350年位前の創建と推定される。塀の石垣に珍しいものがある。鐘の鋳工は長崎住大隈少禄安山彌五左衛門藤原国久で、現在の鍛冶屋町で鋳造されている。

写真 12〜 13 (7)万 霊 塔(同上円成寺の東側)
円成寺東側に建立されある自然石の塔であるが、裏面に下の様に記されている。
自寛永十九年(1642年)壬午歳二百年間長崎御番手舸子(かこ 水夫)為死亡者被建之吊者也
天保十二(1841年)辛丑冬十月
これをもってしても、200年以上に亘って、長崎御番を仰付けられていた事が判然とするが、何人位の死亡者があったかは判明しないが、同寺の過古帳を調査したら或は判明するやも計られない。

写真 14〜 15 (8)波止恵比須
元来恵比須は全国的に漁業商業の神として祀られているが、浜恵比須は佐賀領内丈けに祀られていると言われている。このように漁業と関係あることは言をまたないが、如何にもユーモラスに彩色せられていて、深堀丈けでも4ヶ所祀られている。

写真  なし    (9)亀 王 塚(2丁目169)  略
写真  なし   (10)御制札跡(3丁目162)  略