天満坂(喧嘩坂)  長崎市万才町 ( 長崎県 )

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天満坂(喧嘩坂)  長崎市万才町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。現在の万才町、長崎地方検察庁と同法務局の間を築町側へ下る石階段の坂。

天満坂 てんまん
長崎市 万才町(長崎地方検察庁〜長崎地方法務局) 石階段 元禄13(1700)以前 WEB(みさき道人)/WEB 保存状態良好 「長崎喧嘩騒動」が起きた場所 1 C

布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の42〜43頁による説明は次のとおり。本ブログ次も参照。深堀の「金谷山菩提寺の沿革など」と「長崎喧嘩騒動」
https://misakimichi.com/archives/391

喧嘩坂 — 長崎版討ち入り事件の発端となった石段

忠臣蔵で知られる赤穂事件の前年、その元祖ともいうべき討ち入り事件「長崎喧嘩騒動」が起こっている。事のあらましはつぎのとおりである。
1700(元禄13)年12月19日の昼、「天満坂」(別名大音寺坂)で佐賀藩深堀領主鍋島官左衛門茂久の家臣である深堀三右衛門が杖をついて歩いているとき、誤って泥をはねた。これが、長崎の町年寄高木彦右衛門の使用人にかかって、口論となった。その場はいったん収まったものの、その日の夕方、長崎にあった深堀屋敷に高木家の使用人が大勢で押しかけて乱暴狼藉を働き、三右衛門らの刀をうばった。
この知らせが深堀の城下にとどき、翌日、家臣多数が長崎にむかい、三右衛門らとともに高木屋敷に討ち入り、彦右衛門らを討った。本懐をとげた三右衛門は屋敷内で切腹、その甥である志波原武右衛門はいまの浜市アーケード入り口にあった「大橋」(現在の鉄橋 くろがねばし)の上で切腹した。その後、幕府の判断をあおいだ長崎奉行は、「討ち入りに加わった深堀の家臣は切腹、遠島、深堀邸に乱入した高木家の使用人は斬首」との処分を下した。
事件の発端となった天満坂はのちに喧嘩坂とよばれ、現在は史跡に指定されている。その坂には長崎産の安山岩でできた石段があって、その両側には同じ材質の大きな自然石(または、それを二つに割った石)が空積みされた立派な石垣がある。…