長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5875 茂木若菜川河口(3)
〔画像解説〕
茂木村の入り江に注ぐ若菜川(大川尻)を北浦方面の岬へと渡る若菜橋。河口付近は42間
(約75m)あり、明治中期に土橋から木橋に架け替えた。右手には長崎ホテル茂木支店があった。左先には北浦へ続く道がある。
目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)
目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)
〔画像解説〕
大正初期の茂木長崎ホテルの絵葉書写真。明治39(1906)年松ヶ枝長崎ホテルの茂木支店として景勝の地塩見岬で開業した。写真には茂木長崎ホテルの従業員が玄関で写されている。建物は和風寄席棟造り2階建て。2階の廊下には洋風のヴェランダがめぐらされている。外国人の客も多かった。
■ 確認結果
きょう、2012年3月17日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木の若菜橋 アーチ橋に舶来の風」。
解説は「長崎から南東に約8㌔続く茂木街道の終点に若菜川の河口があります。英海軍の見習い将校ヘンリー・スチュアートは1890(明治23)年、茂木に旅行し、河口を撮影しています。…」
「若菜橋を渡らずに直進したところは元庄屋の森岡平左衛門屋敷(現茂木郵便局)でした。ここには1906年、道永エイが外国人のための茂木長崎ホテル(のちのビーチホテル)を建てます。木造2階建てベランダ付きのおしゃれな洋館でした。…」
長崎大学データベースでは、目録番号:5875「茂木若菜川河口(3)」と、目録番号:5258「茂木長崎ホテル(4)」の作品である。
「若菜橋」についていうと、若菜川の「河口付近は42間(約75m)あり」で、新聞解説の「幅75㍍の河口にかかるのは若菜橋です」は、橋の全長と読まれかねない。
きょうの問題は、次の「茂木長崎ホテル(のちのビーチホテル)」についてである。誤解を解くよう2008年から指摘している。茂木には同じようなホテルが2つあった。
目録番号:5258「茂木長崎ホテル(4)」は、決して「道永エイが建てた(実際は前ホテルを買収建て直し、後に「ビーチホテル」と改称した)」茂木左側岬、庄屋宅跡の方の茂木ホテルではない。長崎学ハンドブックⅡ「長崎の史跡(南部編)」28頁参照。
この建物は、次の目録番号:3827「茂木長崎ホテル(1)」のとおり、茂木右側岬、玉台寺から潮見崎の方へ向かう途中、新田にあった「茂木長崎ホテル」(後の松柏楼)の古写真である。
ホテルとしての開業・閉業年代は不明。小料理店に変わり「松柏楼」は、大正12年頃から昭和
12年頃まであったらしい。跡地は現在の「高崎湯」裏手ではなく、左側アパートとなったところである。
以上は、「茂木商工会30周年記念誌」平成2年刊の44〜45頁に、貴重な記事と古写真がある。よく読んでもらいたい。
本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1535
目録番号:5258「茂木長崎ホテル(4)」は、アルバム名: 絵葉書(長崎地域) 。ヘンリー・スチュアートが1890(明治23)年、茂木に旅行した際、「若菜橋」とともに撮影した写真ではない。これも誤解して読まれる写真の掲載の仕方と思われる。
2つのホテルの背景の山並みは、明らかに違う。昨秋、せっかく「茂木さるく」に出かけられたなら、このような現地研究もお願いしたかった。
茂木町「裳着神社の由緒」現地説明板に、茂木ホテル(後のビーチホテル)の古写真があったので、最後に追加した。両ホテルの造りと建物背後の山手の違いを良く見て判断してもらいたい。
本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1818
また、ブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」が、長崎大学附属図書館「古写真研究 第3号」2009年5月発行57〜62頁に掲載されている。これに詳しい茂木ホテルの写真がある。
本ブログ次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2795