長崎名勝図絵の風景  15  思 案 橋

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長崎名勝図絵の風景  15  思 案 橋

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

138 思 案 橋    (文献叢書 86〜87頁  所在地 長崎市鍛冶屋町)

鍛冶屋町にある。もと土橋、のち廊橋(いたばし)となった。花街への入り口に当たる。ここを通ると色街が目と鼻の先にあり、何となく春情が湧くので、ここが思案のし所と、己れを慎んで迷ってはならない。という意味で橋の名となった。或いは延宝3年(1675)幕命により島谷市左衛門が、無人島探検に行った時の船が、暹羅船になぞらえたもので、のちその船の材で橋を架けたので、暹羅橋と言ったのが、後世誤って思案橋になったのであるという。これもまた一説である。 この橋旧は川口橋という。文禄元年(1592)始建。

(注)「暹羅船」は、シャム、現在のタイ国の船と思われる。ブログ「ピグの部屋 タイに魅せられてロングステイ」に次の記事がある。
漢語の『暹羅』・日本語読みは?
…1732年に江戸時代の知識の集大成として編纂された日本最初の図説百貨辞典の『和漢三才図解』が残されています。(出典:日・タイ交流500年史)
この書籍の中に、『暹羅』の平仮名表記は『しやむろ』、カタカナ表記は『スエンロ』とあります。他の史書には、『センラ』という表記もあるやに漏れ聞いています。
『朱印状』は幕府の公式書類ですが、江戸時代の民間史料にも『暹羅』を『しゃむろ』と読ませる記述が残っています。…