月別アーカイブ: 2012年3月

長崎街道を歩き日見峠から網場金比羅岳へ  2012年3月

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長崎街道を歩き日見峠から網場金比羅岳へ  2012年3月

2012年3月11日(日)曇り。長崎街道を歩き日見峠から網場金比羅岳(標高287m)へ。参加12人。みさき道歩会の例会。
蛍茶屋9:30−長崎街道歩き−日見峠11:20−林道−日吉青年の家E地点(11:45着 昼食 12:25発)ー不動山12:41−網場金比羅岳13:20−県営バス春日車庫前14:10(徒歩距離 約10km)

先週が雨で、きのうに延期した「高浜海水浴場前から殿隠山・高浜ダムへ」に続き、2日連続の例会。参加者はきのうに−1、+3で12人だった。講師は、博学のN氏。
中川八幡神社前から上がり、長崎街道歩きが始まる。F.ベアト撮影の墓地は、この光景から蛍茶屋光雲寺墓地である。一の瀬橋、渡鳥塚、力士墓、南京坊の墓、青銅塔など見学しながら、本河内ダム脇の道を日見トンネル西口まで行く。ここにも小さな石橋。

明治新道の日見峠切通しまで、きつい登り。長崎街道歩きはここまで。峠を過ぎて右手の林道へ入る。しばらく進んだ途中に「日吉青年の家」の案内板があり、登ると稜線の「日吉青年の家E地点」広場へ出る。昼食。

午後は尾根伝いに不動山、こんぴらの森と進み、13:20網場金比羅岳に到着。眼下は春日町や潮見町の集落。遠く茂木方面も見える。展望台脇にあるのは、長崎要塞地帯標。普段は網場へ参道を下るのだが、少し遠回りをし展望台東尾根の様子を見てから、迂回する車道へ降りた。車道を戻り春日町の県道へ出て、県営バス春日車庫前に14:10着いた。バス便がすぐあった。
宮さんの参加記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29376928.html 

長崎名勝図絵の風景  9  水 紋 石

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長崎名勝図絵の風景  9  水 紋 石

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
水紋石は次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/243
水紋石の所在地は、長崎市愛宕1丁目32番11号。愛宕山の南側中腹。場所がわかるよう地図(航空写真)で示した。現在、石面は庭の崖に少ししか確認できず、神祠はなかった。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

99 水 紋 石     (文献叢書 71頁  所在地 長崎市愛宕1丁目)

高野平の東、小野の窪にある。立ちならぶ岩の石面は、皆自然に水波の紋が表れている。内に稲荷の神祠が祀っている。岩水大明神という。俗に八兵衛稲荷と呼ぶ。

高浜海水浴場前から殿隠山・高浜ダムへ  2012年3月

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高浜海水浴場前から殿隠山・高浜ダムへ  2012年3月

2012年3月10日(土)晴れ。高浜海水浴場前から殿隠山(標高263m)・高浜ダムへ。参加
10人。みさき道歩会の例会。3月4日(日)が雨のため延期して実施。
高浜海水浴場前9:30発—高浜尾根—林道出合10:55−遠見山との鞍部−殿隠山(11:40着 昼食 12:15発)—高浜ダム—高浜海水浴場前13:30着(徒歩距離 約 7km)

長崎半島の南の山、殿隠山へ高浜から登る。天気良く、青い海と白砂、高島、端島(軍艦島)など望める。1枚目写真の真ん中の殿隠山稜線を上がる。ほとんど植林地境の尾根道。林道へ出てから、その林道を遠見山との鞍部へ向かい、殿隠山へ逆縦走した。山頂11:40着。昼食。
明日は連チャンとなった長崎街道歩きがあり、きょうは無理しない。脇岬からの農道により高浜ダムへ下り見学。高浜海水浴場前に13:30戻った。最後は帰りの岳路の風景。

宮さんの参加ブログ記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29372649.html

長崎名勝図絵の風景  8  願 成 寺

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長崎名勝図絵の風景  8  願 成 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
山頂神社の文筆峰は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/256
長崎玉成高校の後ろ側にある愛宕神社が願成寺跡。右手から長崎医療技術専門学校の方へ急な石段をかなり登って行くと、山頂の愛宕神社へ達する。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

98 愛宕山大光院願成寺  (文献叢書 67〜71頁  所在地 長崎市高平町)

合斗峰〔通称愛宕山〕の下、真福寺の南にある。初め立山の麓にあり、寛永20年(1643)ここに移った。境内7,317坪。京都仁和寺の末寺で真言宗。修験者宥慶が山を開く。鳥居から上宮まで12町。麓に寺がある。愛宕大権現の社は、…火防ぎの神と称する。…この合斗峰は、北に真言山に連らなり、東は飯盛山に接している。傾斜が急で、樹木が生い茂っている工合は、人の頭髪のようである。

長崎名勝図絵の風景  7  清 水 寺

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長崎名勝図絵の風景  7  清 水 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
清水寺は次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/1679
平成18年からの本堂全面解体保存修理は、平成22年6月15日に落慶完成。清水寺本堂は日本仏堂で非常に特徴ある建物であることが判明。文久2年の姿に復元され、国指定重要文化財となった。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

94 長崎山清水寺興成院  (文献叢書 62〜66頁  所在地 長崎市鍛冶屋町) 

祗園社の左にある。真言宗法相宗兼学の宗旨で、京都清水寺の末寺である。境内3,400坪。元和9年(1623)創立。開山の慶順は、山城国八幡の産、俗姓は水野氏。京都清水寺の内の光乗院を隠退した人である。この地は薬師石のあった所である。寺内に祀る観音像は、京都清水にあったもので、仏師運慶の作。一説では、京都清水の本尊と同じく、延鎮僧都が仏師と共同で作ったものという。はじめ京都の本尊として、高さ八尺の像を造るに先きだち、八寸像を試作した。これが主馬判官盛久の守り本尊となっていたもので、光乗院に伝わったというのである。

慶順はこの像を抱いて、京都から長崎に来た。そして小島村の民家に宿って、夜半に出てみると、光が東の方から発して、あたりが明るい。不思議に思って、翌朝行ってみると、そこに一つの大きな石があった。それが薬師石で、光はこれから出ていたのであった。それで瑞光石と名づけた。慶順は、この地こそ一寺建立にふさわしい霊地であるとして、堂宇を建て、護持の観音像を安置したが、寛永4年(1627)に立派に改建した。この時、島原城主松倉豊後守重政が、堂前に瓦を敷き、石造欄干をめぐらして、京都清水の舞台になぞらえた。そして後山に松を沢山植えさせている。…  石門 …明和8年(1771)の建立。廣大圓満の四字と、左右に対句を刻してある。〔この門現存〕…

長崎名勝図絵の風景  6  祗 園 社

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長崎名勝図絵の風景  6  祗 園 社

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
祗園社(八坂神社)は次も参照。  https://misakimichi.com/archives/1675

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

93 祗 園 社  (文献叢書 60〜62頁  所在地 長崎市鍛冶屋町) 

崇福寺と清水寺の間にある。宝樹山現応寺延寿院と号す。天台宗。東叡山の末寺。境内
1,394坪余。牛頭天王を祀る。京都の感神院になぞらえて、祗園と名づける。神は素戔鳴尊(すさのをのみこと)で…八幡と山王の二神を一つ社殿に併祀する。寛永9年(1632)大養坊 高覚院ともいう 盛有が草創勧請した。…又崖の下に、きれいな泉が涌いており、祗園泉と呼んでいる。冷くて味がよく、茶を煮るのに適している。長崎の名水の一つである。

長崎名勝図絵の風景  5  崇 福 寺

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長崎名勝図絵の風景  5  崇 福 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
崇福寺は次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/1680

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

91 聖壽山崇福寺  (文献叢書 48〜60頁  所在地 長崎市鍛冶屋町) 

大光寺の左にある。臨済宗黄檗派の禅寺。唐僧超然の開基。境内7,866坪。…明暦元年
(1655)黄檗国師隠元 名は隆琦、福州福清県の人。承応3年(1654)懇請されて長崎に渡来、興福寺の中興開祖となる。明暦元年(1655)8月9日妙心寺住持竜渓禅師の懇請により京都に行き、遂に勅を承けて山城国宇治黄檗山の開山開祖となる が、わが国に黄檗を開いた。…

長崎名勝図絵の風景  4  大 光 寺

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長崎名勝図絵の風景  4  大 光 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

90 大谷山大光寺  (文献叢書 48頁  所在地 長崎市鍛冶屋町) 

大音寺の左にある。旧は第七橋〔芊原(すすきはら)橋〕の東、中紺屋町の上(かみ)にあった。慶長19年(1614)僧慶了が西本願寺の末寺となって創建。…万治3年(1660)今籠町の現在地に移建。境内5,978坪。本堂前に数株の桜樹があり、枝ぶりも美事で、花時には見物に来る者が多い。…

長崎名勝図絵の風景  3  大 音 寺

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長崎名勝図絵の風景  3  大 音 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
大音寺は次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/1599

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

89 正覚山中道院大音寺  (文献叢書 41〜48頁  所在地 長崎市鍛冶屋町) 

晧台寺の左。浄土宗。京都知恩院末寺。晧台寺と共に眺望のよい広大な地を占めている。…元和2年(1616)この旨幕府にも達し、本博多町の昔堀があった側の、南蛮寺を毀した跡地を、伝誉に賜わって、一寺を創立せしめられ、これを大音寺と称した。寛永18年(1641)松平伊豆守信綱が島原凱陣の時、長崎に立ち寄られ、銀百を賜わって、今の地に移し建てられた。同年御朱印を賜り、御奉書が到来した。境内23,630坪。三大寺の一で、江戸幕府拝謁の時は、寺格は晧台寺と同じ。…

長崎名勝図絵の風景  2  晧 台 寺

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長崎名勝図絵の風景  2  晧 台 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
晧台寺は次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/1677

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

88 海雲山晧台寺  (文献叢書 36〜41頁  所在地 長崎市寺町) 

大窪山の麓、高野平郷にある。元は岩原山の下にあって…寛永18年(1641)には特に褒章を賜わり、上使井上筑後守源政清が派遣され、山地数百畝と緡銭一萬を喜捨して、岩原から今の地に移建された。…翌19年一庭は…勅定によって了外廣禅師と号し、更に勅して海雲山普昭晧台禅寺の号を賜わった。曹洞派の禅宗である。…切支丹も年々衰微の旨、江戸幕府に聞こえ、正保5年(2月改元慶安元年 1648)御朱印を賜わり、永く免租となった。境内11,677坪。…

長崎県教育庁学芸文化課HP「長崎県の文化財」 トピックス情報
http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/
NEW 長崎晧台寺の大仏(毘盧舎那仏坐像及び基台)が県指定有形文化財となりました!
県指定有形文化財(彫刻)
○長崎晧台寺の大仏(長崎市)

長崎晧台寺の大仏(毘盧舎那仏坐像及び基台)
基台を含めると6.7メートルを超える壮大な銅造毘盧舎那仏坐像
有形文化財(県指定) 
よみがな ながさきこうたいじのだいぶつ(びるしゃなぶつざぞうおよびきだい)
指定年月日 2012年02月24日
所 在 地 長崎市寺町1番1号
所 有 者 宗教法人 晧臺寺
年   代 江戸時代
最寄り駅 電停「思案橋」から徒歩5分
紹 介 HP http://kotaiji.net/

「長崎晧台寺の大仏」は、晧臺寺の大仏殿に安置された銅造毘盧舎那仏坐像である。宝冠をつけた毘盧舎那仏坐像は、時代が降ることもあって、儀軌(ぎき)の制約にとらわれない中国的な像容と理解される。本大仏は、幸いにも第二次世界大戦末期に実施された銅の供出を免れており、長崎の歴史をいくつもの角度から語る起点を提供している遺産となっている。
中国明清文化のうち、仏教文化の移入と深まりを軸に、キリシタン政策においても、黄檗禅に対する曹洞禅の展開においても、あるいは歴史的な鋳成技術においても、本大仏が提示する課題は広がりをみせていることから、長崎の歴史を語る貴重な資料といえる。