長崎名勝図絵の風景 7 清 水 寺
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
清水寺は次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1679
平成18年からの本堂全面解体保存修理は、平成22年6月15日に落慶完成。清水寺本堂は日本仏堂で非常に特徴ある建物であることが判明。文久2年の姿に復元され、国指定重要文化財となった。
長崎名勝図絵 巻之二上 南邊之部
94 長崎山清水寺興成院 (文献叢書 62〜66頁 所在地 長崎市鍛冶屋町)
祗園社の左にある。真言宗法相宗兼学の宗旨で、京都清水寺の末寺である。境内3,400坪。元和9年(1623)創立。開山の慶順は、山城国八幡の産、俗姓は水野氏。京都清水寺の内の光乗院を隠退した人である。この地は薬師石のあった所である。寺内に祀る観音像は、京都清水にあったもので、仏師運慶の作。一説では、京都清水の本尊と同じく、延鎮僧都が仏師と共同で作ったものという。はじめ京都の本尊として、高さ八尺の像を造るに先きだち、八寸像を試作した。これが主馬判官盛久の守り本尊となっていたもので、光乗院に伝わったというのである。
慶順はこの像を抱いて、京都から長崎に来た。そして小島村の民家に宿って、夜半に出てみると、光が東の方から発して、あたりが明るい。不思議に思って、翌朝行ってみると、そこに一つの大きな石があった。それが薬師石で、光はこれから出ていたのであった。それで瑞光石と名づけた。慶順は、この地こそ一寺建立にふさわしい霊地であるとして、堂宇を建て、護持の観音像を安置したが、寛永4年(1627)に立派に改建した。この時、島原城主松倉豊後守重政が、堂前に瓦を敷き、石造欄干をめぐらして、京都清水の舞台になぞらえた。そして後山に松を沢山植えさせている。… 石門 …明和8年(1771)の建立。廣大圓満の四字と、左右に対句を刻してある。〔この門現存〕…