月別アーカイブ: 2012年3月

長崎名勝図絵の風景  1  はじめに

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長崎名勝図絵の風景  1  はじめに

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。

平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。
執筆にあたってでは、「150年(当時)前の長崎の観光案内書として、現在の長崎と対照して読んで頂き、併せて郷土史入門書として親しんで頂くのが目的であります。そういう面で、少しでも役に立つことができれば…」と念願されている。(以上、発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、この意味で主な図絵について現今の写真と対比させ、見てもらおうという試み。伊能忠敬研究会入江さんのアイデァだった。
デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

長崎港内唐船入津 九 荷役之図  (文献叢書 118〜119頁)

長崎の古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5868 茂木への道(5)

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

目録番号:2264  茂木街道(3)
〔画像解説〕
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、昭和9(1934)年には新県道(現国道324号線)が開通した。

目録番号:4718 峠の人力車(2)

■ 確認結果

きのう、2012年3月3日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木街道の転石付近 開削後まもない光景」。
解説は「上の写真は英海軍の見習い将校ヘンリー・スチュアートが1890(明治23)年、開削されたばかりの茂木街道を通って茂木へ旅行した際に撮影したものです。…場所は転石付近で、茂木方向を写しています。…
1894年ごろに撮影された下の写真は、絵の具で彩色された幻灯機用のガラス板です。同じ写真が横浜の写真家玉村康三郎のアルバムに収蔵されているため、製作者は玉村と思われます。… 写真に写る街道は、まだ新しい道の雰囲気を伝えています。中央の人力車は写真右下方向に曲がって山道をくだり、平口橋を経て茂木に至ります」とある。

長崎大学のデータベースでは、上の写真は目録番号:5868「茂木への道(5)」、下の写真は目録番号:1365「茂木街道(2)」。玉村アルバムの同じ写真は、目録番号:1365「茂木街道(2)」の作品である。
写真は田上から下った「柳山辺り」は、旧街道の道なので解説誤り。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1879
いずれも、明治20年(1887)6月開通した「茂木新道」すなわち「明治旧県道」の、転石から平口橋の谷間へくだる旧カーブ付近を、撮影しているのは間違いない。

上の写真は、ホテル古都あたりから撮影している。少し下って谷間が広け、カメラの向きを変えて撮影したのが、下の写真であろう。
今回、古写真考とするのは下の写真には、まったく同じような場所から撮影した参考写真がある。年代は新しいと思われるが、目録番号:4718「峠の人力車(2)」であるから紹介する。
転石から「明治旧県道」の旧カーブを河平川の方へ下って行き、高架橋(唐八景トンネルの国道324号)の下にあるのが、「平口橋」である。

長崎の古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3799 茂木街道(4)
〔画像解説〕   超高精細画像
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。この写真は、明治20年(1887)頃の田上の茶屋を撮影した写真である。明治時代には、茂木は長崎から小浜、熊本、鹿児島方面へ人や物資を運ぶ重要な港であった。また、居留外国人の保養地として知られていた。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。特に、田上の切り通しの開削工事が困難であった。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。田上峠は長崎から茂木に到る中継点に当たり、峠に茶屋ができて賑わった。

目録番号: 337 茂木街道田上(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
上記と同じ。省略。

目録番号: 366 茂木街道田上(2)   ((1)と同じ写真。掲載略)
〔画像解説〕
長崎から茂木へ行く途中の峠。長崎から茂木への要路で田上峠は茂木口といわれていた。峠の茶屋と人力車が時代を感じさせる。整理番号8-11と同一ネガからの焼き付けと思われる。

■ 確認結果

先週、2012年2月25日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「田上の茶屋 木おけから湯気たつ」。
解説は「…この場所は、背後の田上の切り通しから下りてきた茶店です。写真には「長崎の茂木街道」と英語の説明書きがあります。先々週紹介した田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたりです。…下の写真は同じ場所を田上側から撮影しています。…」とある。

まぎらわしい説明だろう。「田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたり」とは、田上の交差点から200mほど下った橋のある「転石」角あたりを考える。やや遠過ぎる。上の写真の目録番号:3799{茂木街道(4)」は、茂木側から田上側を、下の写真の目録番号: 337「茂木街道田上(1)」は、田上側から茂木側を撮影している。
きょうの掲載記事「茂木街道の転石付近」も確認を要することがあり(次記事とする)、きょう一緒に現地で調査してきた。現在の写真はそれぞれのとおり。

河平のご年配長橋さんが、昔の田上の茶屋のことを良く覚えておられた。上の写真で言うと、左は「石津酒店」、右は「木村茶屋」という茶屋だろう。2月11日付の判明した「梶原茶屋」は、現在の「長崎バス田上発着場」など挟んで、その上の方にあったという話である。
戦後、昭和24〜25年頃までこの建物は残っていた。転石角には寿司・竹の子弁当の店があった。河平川の平口橋先には大楠の根元に「楠茶屋」もあったらしい。

「石津酒店」は、現在も同じ場所に酒店ビルがある。主の話でも位置的に間違いないだろうと確かめた。したがって、上の写真の撮影場所は、現在の茂木から上がってきた長崎バス「田上」バス停あたりから。山手からの小川と「出合う」と言うべき場所だろう。
田上のこの谷の川は、正しくは「河平川」の源流。田手原町から流れるのが「若菜川」本流である。長崎大学及び長崎市役所茂木支所で、茶屋名とも撮影場所の再検証をお願いしたい。

長崎の西空の夕日  12− 2

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長崎の西空の夕日  12− 2

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1      2012年 2月 9日の16時37分頃
写真  2〜 5  2012年 2月11日の17時57分頃
写真  6〜 7  2012年 2月12日の18時01分頃
写真  8      2012年 2月27日の18時17分頃
写真  9〜12  2012年 2月29日の17時54分頃