長崎名勝図絵の風景 12 唐 船 石
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
唐船石には、田上か八景町の交差点から愛宕自動車学校の方へ向かう。神社の表示がある所である。
長崎名勝図絵 巻之二上 南邊之部
116 唐 船 石 (文献叢書 77〜79頁 所在地 長崎市田上2丁目)
僧都岡の南、田上合戦場の近くにある。石の高さ五六尺、径り六圍ばかり。形が唐船に似ているので、この名がある。傍に松が二三本生えている。永禄元年(1558)明の船が初めて入津した。大きな船で、貨財を沢山積んで来た。このことが京都に聞こえ、足利将軍義輝公は、小島備前守を遣わされた。備前守が余りに威張りちらすので、領主長崎氏は憤りを発し、或る夜備前守を襲って殺し、ここに葬った。この巨石を以って塚とし、松を以って標としたという。小島備前守は尾崎、即ち今の稲荷祠金剛院〔現在の大崎神社〕に居を構まえた。