長崎名勝図絵の風景  13  茂 木 村

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長崎名勝図絵の風景  13  茂 木 村

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
裳着神社は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1515
現在の写真は、裳着神社境内からと、近くの円成寺上の墓地から望む。

長崎名勝図絵 巻之二上   南邊之部

126 茂 木 村    (文献叢書 80頁  所在地 長崎市茂木町)

昔は入江で、家数も少く、僅かに漁師の家が数軒あるだけの、名もない浦であった。神功皇后が三韓征伐の帰途、この浦に船を入れられ、岸に上って御覧になると、川上の方から青菜が流れてきたので、青菜の浦と名づけ給うた。或いはもみ菜の浦ともいった。村口に祭ってある八人の家臣の武臣が、狭い所に夜具を同じくして、一夜を過ごされたので、群着(むれぎ)の浦と呼んだのが、のちに訛って文字を変え、茂木浦となった。…それから玉の浦〔長崎〕に入らせ給い、遂に筑前国に到達されたと、この浦の古老は言い伝えている。