長崎の古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景

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長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品を次記事とも3点取り上げる。

110頁  作品 123:長崎市街風景
〔画像解説〕
手前中央に石橋があり、遠景の右に片渕町、左に諏訪神社の森、遠くに三ツ山が見える。しかし、この石橋はどこの橋か。珍しい写真である。

■ 確認結果

石橋が群を成した中島川のみで考えるから、手前中央の石橋は「どこの橋か」わからなくなったのだろう。中島川は左上の家並みの中を流れている。写真の石橋は、変流埋め立て前の銅座川に架かっていた「新地蔵所」南門の石橋なのである。
撮影場所は、現在の梅香崎郵便局から遠見番長屋跡や活水大学へ上がる石段の途中にある「天満宮」の高台あたりから撮影されたと思われる。左上隅は金比羅山の山頂である。
現在の写真は、山並みが確認できないため、天満宮より少し上部の場所から撮影した。

新地蔵所(しんちくらしょ)は、江戸時代に長崎の新地町に造られた貨物倉庫である。元禄11年(1698)後興善町から出火した火災により、当時長崎に入港していた唐船20隻分の荷物を収納していた樺島町(椛島町)の土蔵が全焼した。
そのため、浜町の海岸沿いを埋め立てて人工島を築造し、そこに唐船専用の貨物を納める倉庫を建造する事になった。翌12年(1699)着工、同15年(1702)に倉庫が完成した。
島の構内は土塀で囲まれていて、出入り口は東側の正門と南東側の南門の2ヶ所。正門は新地橋で西浜町と、南門は石橋で広馬場や唐人屋敷とそれぞれ結ばれていた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

長崎大学のデータベースでは所蔵がないのか、この古写真は見当たらない。目録番号: 6054「大徳寺跡から県庁方面を望む」には、新地蔵所の正門、新地橋の石橋が写っている。
広場場や唐人屋敷と結ぶ南門も、奥の船溜りに入るため橋高なアーチ式石橋が手前に架かっていた。長崎名勝図絵に描かれ石橋の記録があるものの、初めて石橋の姿がわかった貴重な古写真と思われる。
目録番号:3855「大徳寺遠望」(略)は、南門石橋上から大徳寺を撮影したようだ。

古写真左側に写っている長屋の建物が、「新地蔵所」の蔵の一角である。南門の橋は、布袋厚氏著「復元! 江戸時代の長崎」長崎文献社 2009年発行 180頁の、【250】唐人屋舗付近の復元図では「板橋」となっている。
正門の新地橋と同時に架設したと思われる石橋が、広馬場側にも実際あったのである。
同復元図によると、南門石橋の位置は、現在の広馬場商店街通り入口、左角の前三菱信用組合広馬場支店の建物(現在は、オガワ・デンタル・クリニック)後ろあたりと考えられる。路地が川筋の形状をしている。駐車場に橋材だったと思われる石がまだ残っていた。

幕末の「肥前長崎図」は、九州大学デジタルアーカイブから、川原慶賀筆「長崎図」の一部は、筑摩書房「江戸時代図誌25 長崎・横浜」から参考のため。長崎古今集覧名勝図絵(稿本)には、南門の石橋が「新地南門より唐人屋敷荷物運図」、「祭舟流図」などに描かれている。
「図ー5 港湾改修工事と橋の架設」は、長崎古写真集(居留地篇)130頁から。同関係年表では、「明治2年(1869) 10月、新地背面の築き増し工事完成により、新地が島でなくなる」とある。したがって撮影年代はそれ以前となる。最後は南門古写真の拡大。石橋に間違いないだろう。

この石橋のことは、記事を2010年12月12日に追加したので、次も参照。
https://misakimichi.com/archives/2462