多良見町西園の「十六善神社」と元釜虚空蔵さんの「浮」の額片
旧喜々津村と大草村の境、立石峠に残る「十六善神道」の標石(別項)から「十六善神社」を調べねばならないこととなった。立石峠が十六善神に参詣する多くの人たちが通った道だったからである。
多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊710〜711頁は次のとおり「十六善神社」を記している。現在の所在地は、多良見町西園にあり、東西園公民館の上に神社はある。
十六善神社 由緒及び沿革
この神社は、もとは元釜名字浮津にあって、浮津大明神(神社)といった。浮津は琴海中学校の校門前一帯の地名で、むかしの海岸である。
延宝三年(一六七五)のこと、疱瘡(天然痘)が流行したとき、神のお告げにより現在地に遷して祀ったところ、疱瘡の流行が止んだという。専務神官をおいたのは寛文十六年(一六六一)というから、浮津宮時代からの神官ということになる。以来一二代に亘って高以良氏が奉仕されたが、現在は神官不在である。
寛永六年に描かれた絵図・大草村図には、十六善神社と浮津大明神も記載されているところを見ると、浮津宮を全て遷したのではなく、浮津宮から十六善神のみ分けて遷したものと考えられる。
ともあれ、十六善神は疱瘡の神様としてひろく崇敬され、遠来の参詣者もあったらしく、立石峠には「十六善神道 木下又平」の道標が建っている。諌早家においても、その年中行事暦「神社祭礼と仕来り」に「九月十七日 大草村十六善神社祭 御代参」と書き留めて、毎年代参を遣わし、米一二俵が供進されたのであった。
天保十四年、藩主鍋島家の若君勇太郎が疱瘡にかかった時は、喜々津村の村役も十六善神社(惣百姓は氏神社)に参詣するようお達しがあっている。
一の鳥居は安永五年(一七七六)の建立で、高井良□□、その他数行の氏名が刻んである。馬場には泉水があって石の太鼓橋が架かっている。寛政元年(一七八九)に寄進されたものである。泉水もこの時造られたものであろう。二の鳥居右柱には、當村領主、三村□□□門と刻まれている。…
伊木力にあった神社を神のお告げにより、古くから大草に移転したので疱瘡の流行が止んだと記している。もともとの神社の地がどこだったか。これは同じくあった浮津宮の鳥居の額片が、琴海中学校あたりの畑から出土したので、場所がわかった。
この貴重な額片は、現在、高岩神社と谷を隔てたもう一方の高台の山中にある元釜虚空蔵さん仏石座の真ん中に据えられてある。同「多良見町郷土誌」774頁の説明は次のとおり。
2.虚空蔵(こくんぞ)さん 自然石に菩薩像を浮き彫りしてあり、神々しい趣がある。中央の鳥居の額片は浮津神社の跡地から出土したもので「浮」の字がよめる。