長崎の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 156頁 春徳寺の墓地
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
156頁 春徳寺の墓地 (厚木市郷土資料館蔵)
〔画像解説〕
長崎の春徳寺の墓地。
目録番号: 767 長崎の墓地(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
F.ベアトによる書き込みに1866年3月とあって、撮影者と時期が判明する。ベアトは長崎では墓地をよく撮影していたが、これは春徳寺墓地の一葉である。春徳寺は、もとトードス・オス・サントス(ポルトガル語で諸聖人の意)という永禄12年(1569)に創設された長崎最初のカトリック教会があった場所で、現在は県の史跡に指定されている。この教会が慶長19年(1614)に破壊されたあと、寛永17年(1640)にそれまで岩原郷にあった寺を移転して創建したという、臨済宗の寺院である。その墓地は、境内から裏山に広がり、そこには著名な「東海の墓」(県指定有形文化財)もある。現在は墓域が再整備されているため、画面の位置を特定することは難しいが、地形からすれば「東海の墓」の裏手あたりか思われる。左上の樹叢が長崎氏の城跡「城の古趾」に連なるのであろう。ベアトの別の一葉の解説では、春徳寺を「“SPRING VIRTUE” TEMPLE」とも訳していた。
■ 確認結果
山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
156頁「春徳寺の墓地」(厚木市郷土資料館蔵)は、はっきりと「長崎の春徳寺の墓地」と解説しているが、はたしてそうだろうか。
長崎大学データベースでは、目録番号: 767「長崎の墓地(1)」にベアト撮影の同じような長崎の墓地の作品があり、これも「春徳寺墓地の一葉である」と解説している。
ベアトの書き込みが、両作品とも撮影地をはっきりと「春徳寺」と記しているのだろうか。「春徳寺」の墓地とするには疑問が多い。
この項は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3523
156頁「春徳寺の墓地」(厚木市郷土資料館蔵)では、右下に写る大屋根の寺の確認が必要である。長崎大学データベース目録番号: 767「長崎の墓地(1)」では、背景に薄く写る山の稜線の確認が必要である。
松の木の樹形が同じものがある。墓地は同じところを撮影していると考えて間違いない。
「春徳寺」の墓地へ出かけても、このような景色は確認できない。墓地の地形も問題となる。寺の背後には広い竹林があり、寺と墓地は同時に写らない。この向きなら「城の古趾」へ連なる稜線ではなく、彦山や風頭山が近くに大きく写るはずである(最後の写真)。
私の感じでは、寺の位置と背後の山の稜線から、現在の写真どおり鍛冶屋町「大光寺」の墓地が最も考えられる。ベアトや上野彦馬は、大光寺を訪ねた写真が残る。
長崎大学で現地確認し、正しい検証をお願いしたい。