長崎の古写真考 長崎古えはがき 満知多座

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 満知多座

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI
長崎古えはがき 長崎名所写真帳  長崎市大工町

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古えはがきの長崎名所写真帳10枚目にある「長崎市大工町」。
この3階建て建物は、明治42年(1909)本石灰町に開設された寄席「満知多座」と思われる。新大工町にあった「舞鶴座」ではない。
伊能忠敬研究会入江氏の見解を、次のとおり教えてもらった。

「長崎市大工町」とは、「長崎市船大工町」のことだと思われます。「長崎市大工町」の古写真の左側に「HIKKUI MACHI」と「本石灰」の文字が写っているので「本石灰町」の住居表示のようです。
しかし、「長崎市船大工町」とすると古写真のように左にカーブする道ではなく、昔も今も「籠町」まではほぼ直線です。そこで住居表示から考えると、現在の福砂屋前から思案橋方向を撮影すると、このようなカーブになるのでは。

3階建ての建物は本石灰町にあった長崎宝塚劇場の前身「満知多座」(みちたざ)のようです。高い所にある屋号が電信柱で見にくいですが、「満知多座」と表記されているようです。
「満知多座」(みちたざ)はWikipediaによると明治42年から大正5年までで、その後は「三七三座」(みなみざ)になっています。現在は「リッチモンドホテル長崎思案橋」です。
よって、撮影時期は明治末から大正初めということだと思います。

満知多座の沿革は、若浦重雄氏著「長崎の歌舞伎」昭和50年発行にあるが、長崎年表の
1909年(明治42年)の記録は、次のとおり。

06/18★本石灰町34番地に寄席「満知多座」が開設
→1916(大正05)05/15☆「三七三座」に改称
→1919(大正08)05/03☆「南座」に改称
05/04☆こけら落とし興行は大阪歌舞伎の片岡仁左衛門一座。
演し物は長崎ゆかりの松平長七郎など
長七郎役の片岡我童が田上の長七郎の墓を参詣
→1942(昭和17)10/17☆大阪梅田映画劇場直営の演劇興行「長崎宝塚劇場」となる
→のち☆洋画常設館となる
→2005(平成17)02/18☆閉館となる