長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 現川の石橋
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:な し 現川(うつつがわ)の石橋
越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版 92頁
〔画像解説〕
元禄時代、現川では、有名な刷毛目文様を主にした現川焼がつくられていた。この石橋は当時のものではないが、長崎の石工より伝えられたアーチ型石橋の工法を取り入れ架設した小石橋として市の文化財に指定されている。
■ 確認結果
「現川(うつつがわ)の石橋」は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版92頁に、作品163として掲載されている。長崎市立博物館所蔵写真と思われる。
画像解説の「小石橋」とは、小さな石橋群という意味だろうが、写真の橋がどの橋だったか不明である。橋名とすると「小藤橋」という橋があるが、橋が小さい。
現川地区には、かつて5基の石橋群があった。(「正納屋橋」など入れて、実際は6基?)。昭和57年の長崎大水害を最後に、すべてが流失した。長崎年表による記録は、次のとおり。
▼1869(明治02)頃
★現川区の架橋方頭取の中島土市が野石造アーチ石橋(幻の石橋)を参考に現川に5橋をつくる
→のち☆樫の木渡瀬橋は再度洪水に流される。山川橋、屋敷橋、小藤橋、山の神橋が残る
→1972(昭和47)03/16☆長崎市有形文化財に指定。自然石のアーチ橋。
→1982(昭和57)07/23☆大水害によりすべてが流失
★本河内の野石造アーチ石橋(幻の石橋)が現川石橋群のモデルとなる
→1889(明治22)☆造成中の本河内高部水源地に水没する
長崎大水害で流失した「樫ノ木渡瀬橋」「山川橋」「小藤橋」「山の神橋」は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1433
「屋敷橋」は、次のHPに貴重な写真がある。前記の「樫ノ木渡瀬橋」と同じ橋であることがわかるだろう。ほかの3橋も別にあり。
http://www.kawadouro.sakura.ne.jp/Nagasaki/Nagasaki2.html
「樫ノ木渡瀬橋」の場所に、後に架かったのが「屋敷橋」である。地元では今でも、「樫ノ木渡瀬橋」としているのだろう。長崎年表の「☆樫の木渡瀬橋は再度洪水に流される」というのは、地元の史料「現川区永?大寶鑑」によると、発行された明治36年までの記録である。
古写真「現川の石橋」は、さてどれだったか。下流から上流側を撮影している。石の組み方を細かく対比したが、合致する石橋がはっきりしなかった。
川幅の広さ、石橋の大きさや格調から、現川集落の入口にかつて架かった「樫ノ木渡瀬橋」だろうと、現地へ出向き状況を確認した。現在のコンクリート橋「屋敷橋」のところである。
右手の尾根張り出し、民家の屋根、石橋の背景に写された現川峠方面の山の稜線と高さは、現在の写真どおり「屋敷橋」で合致した。
JR現川駅横の現川物産館に展示されている現川古絵図は、杉澤翁昭和7年図である。表題は「現川維新前後の面影」となっている。「樫ノ木渡瀬橋」のみ、アーチが描かれている。
「長崎大水害にて流失 樫ノ木渡瀬橋」も、現川物産館の展示写真から。
古写真「現川の石橋」は、撮影年代や橋名を明記していない。いつの時代のものかわからない。現在の状況写真から、「屋敷橋」の場所に架かっていた橋の姿に間違いないと思われる。
橋名で混乱するが、「樫ノ木渡瀬橋」は明治36年以降、また再建された可能性がある。「屋敷橋」は架橋年代が不明。ただ、石橋の石の組み方から、長崎大水害まで存在した「屋敷橋」ないし「樫ノ木渡瀬橋」という橋ではなく、それ以前の「樫ノ木渡瀬橋」の姿のような気がする。
いずれにしても古写真「現川の石橋」は、珍しい写真である。石の組み方の対比は、私の見誤りもあるので、地元現川や織田先生の正しい考証をお願いしたい。