長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 25頁 雨上がりの町並みです…
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
アルバム長崎百年 ながさき浪漫
25頁 雨上がりの町並みです…
〔画像解説〕
袷の着物。春先の雨上がりでしょうか? 影を後ろに引いている。これは昔の町並みからはお昼過ぎの構図です。でも、そうしたらどこかなーと思います。特定はできませんが、大正時代の雨上がりの町並みです。
■ 確認結果
長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の25頁に掲載されている「雨上がりの町並みです…」。
右下に(泉)、泉写真館所蔵写真である。説明文はながさき浪漫会。
長崎大学の古写真データベースでは見当たらないが、目録番号:3237「大波止大黒町を望む」に、明治初期の同じような山並みの写真がある。
「雨上がりの町並みです…」の作品には、特徴的な建物が中央右の大通り沿いに写っている。背景の山並みを立山とすると、現在、元船町に数棟残る倉庫群とも考えられたが、どうも違った。
これと同じ写真が、長崎県営業写真家編纂委員会編「写真時代の夜明け 長崎県写真百年史」平成元年発行194頁に掲載されていた。同解説は次のとおり。写真集には、「八軒倉」を写した別写真が190頁にもあった。
懐かしのから傘風景 長崎・広馬場(新地銅座付近)
大正・昭和の初期は、この付近が市の中央部から南部に向かう交通の要点で、波(浪?)の平・戸町方面への乗合自動車がここから出ていた。写真の日本髪に和服、高下駄、信玄袋、片手にから傘、いかにも時代が偲ばれて懐かしい。右手遠くの倉庫は銅座八軒倉、左側に長崎名物の石畳が雨で光っている。 (大正10年頃)
現在は籠町となる。銅座観光通りの現地へ行くと、江山楼向かいの駐車場前にさるく説明板が設置されていた。「八軒倉」ではなく、正しくは通称「十軒蔵」という。確かに同所一帯に昭和50年代まで、一部の建物が残っていた。今でも「喜楽園」ビル上に屋根の片割れなど確認できる。
さるく説明板の写真は、銅座橋側から写しているので、反対の広馬場側から十軒蔵を同じ場所に置き、今回の現在の写真を写してみた。
道路の状況は同じようになる。背景の山並みは風頭山の稜線であろう。高いビルのため広馬場側からは見通しが効かないので、銅座橋の方へ寄って確認した。
古写真の倉庫群は、銅座観光通りの新地中華街側に建ち並んでいた「十軒蔵」に間違いないだろう。
長崎県文化振興課 ながさき歴史発見・発信プロジェクトHP「旅する長崎学(たびなが) ふるさと写真館」大正時代にも、この写真は掲載されているが、撮影場所不明となっていた。