長崎の古写真考 ながさき浪漫 100頁 旭町、漁師の人の応援団

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長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 100頁 旭町、漁師の人の応援団

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
100頁  旭町、漁師の人の応援団   
〔画像解説〕
洋館の倉庫や事務所が並んでいますが、大浦ではありません。対岸の旭町の町並みです。水産の基地長崎は、この町に働く人達と豊かな海、そして勤勉な漁師の努力によって発展していったのです。    明治の末

目録番号:5122 長崎大波止桟橋
〔画像解説〕
明治末から大正初年にかけての大波止海岸の絵葉書。長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった。大波止海岸は明治37(1904)年に埋立て護岸工事で整備された。桟橋に停船中の船は対岸の水の浦、旭町の渡船である。出島の前方付近から、長崎市街地の海岸線を大黒町砲台付近にかけて撮影した写真である。

■ 確認結果

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の100頁に掲載されている「旭町、漁師の人の応援団」。長崎文献社所蔵写真と思われる。説明文はながさき浪漫会。
長崎大学の古写真データベースでは見当たらないが、目録番号:5122「長崎大波止桟橋」に、明治末から大正初年にかけての同じような山並みの写真がある。

ペンキ字の「日東製氷稲佐工場」は当時、稲佐橋下流の浦上川沿いに、赤レンガ建物が3棟あったらしい。現在の旭大橋付近で、光町や旭町となる。
「旭町、漁師の人の応援団」の作品が旭町とすると、当時の桟橋?あたりから撮影した写真であろう。ドラゴンプロムナード階上方向からの確認写真どおり、背景は稲佐山や岩屋山のもう少し高い稜線となるはずなのに、両方ともおかしな写真である。

説明文のとおり、別の町の製氷工場とは考えられない。目録番号:5122「長崎大波止桟橋」と山並みを対比するとまったく同じようである。「長崎要塞司令部による長崎地帯の写真、測量、写生の検閲は明治32(1899)年に長崎要塞地帯法ができてから始まった」とわざわざ解説している。
「旭町、漁師の人の応援団」も、写真の検閲により背景の山が一部塗りつぶされたと考えると、この製氷工場は「旭町」と思われる作品だが、どなたか他に知らないだろうか。
2004年7月22日長崎新聞掲載「消えた”証人” 長崎の被爆遺構(2)」の、記事と同写真は次のとおり。同じ建物かどうかはわからない。

せめぎ合い    民間の所有、保存に限界
「原爆とのかかわりを新聞報道で知るまで、建物の価値に思い至らなかった。事情があり、やむを得なかった」
爆心地から南へ二・一キロ、浦上川の河口近くにあった日本冷蔵稲佐製氷工場跡(長崎市光町)。元所有者の関係者が、建物取り壊しの経緯を振り返る。
赤れんがの三棟は戦時中、海軍に納める食料の保存や冷蔵に使われていた。原爆で屋根が抜け落ち、社員三人が死亡。被爆直後には、缶詰などの食べ物を求め大勢の被災者が集まった。
戦後の一時期、かまぼこ製造工場となり、操業をやめた一九五〇年以降も、外壁などが被爆当時のまま残されていたが、敷地売却に伴い、九六年十月までに三棟全部取り壊された。現在、別の会社の駐車場などとして使われている。…

なお、製氷工場の同じ写真は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版の64頁にも掲載されていた。同解説は次のとおり。撮影場所は明記されていない。

108 大日本製氷会社長崎出張所
明治22年、松田源五郎・香坂留彦は5㌧の製氷機械とラムネ製造機を九州では一番はじめに設置して長崎製氷会社として発足、その後幾度かの変遷を経て昭和3年大日本製氷会社と合同した。当時における冷凍能力100㌧、冷蔵能力10㌧という設備は九州随一のものであった。(写真は昭和初年)

単純な推測だが、背景の山並みが修正ないものとすると、倉庫の建物を比較する必要があるが、篭町日浦海岸の埋立地にあった「十軒蔵」も考えられる。対岸の新地側から撮影できる写真と思われる。現在の写真は、新地湊公園から写した。ここに製氷工場があったかはわからない。