月別アーカイブ: 2012年4月

江戸期の「みさき道」詳細ルート地図  1 みさき道本道(1)

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江戸期の「みさき道」詳細ルート地図  1 みさき道本道(1)

文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、1泊2日により仲間3人で御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎『長崎在学日記』(北海道陸別町同資料館所蔵)による当時の「みさき道」推定ルート図は、本項の前の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3035

みさき道歩会の研究レポート第1集に収録したとおり、推定ルート図は平成17年当時の調査である。約7年が経過した。その後、判明した正しいと思われるルートが一部区間に出てきた。
ここに掲げる詳細ルート地図は、伊能忠敬研究会入江氏(長崎市在住)の地図画像研究により、私が主に実地を再踏査した結果である。
研究・調査期間は、本年2月初めから約2か月を要した。

画像研究の方法は、長崎市南部の1/10000地形図に、佐賀藩が幕末に作図した古地図と明治中期の地図、昭和49年度に撮影された航空写真、昭和23年に撮影された米軍の航空写真をグラフィックソフトのレイヤーで重ねて行なわれた。入江氏の協力に深く感謝したい。

幕府領の村の古地図は見当たらず、街道はこれが正しいという確かな史料も存在しない。この詳細ルート地図も、お互いが協議を重ね実地踏査の上、作成した推定ルート地図に変わりないので、あらかじめ了解をお願いしたい。地図のズレもまだ若干あると思われる。
詳細ルート地図は、みさき道本道のほか、岳路道、川原道(長崎半島東回りの道)経由の道についても、同時に実施した。

参考とした文献・関係資料は多くあるが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」           佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」               長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕     同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」           同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」  同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」   三和公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政5年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。

容量の制限があり、4記事に分けて詳細ルート地図13枚を掲載した。ブログ画像は、不均衡に表示されるが、オリジナル画像(ズーム拡大)では、同じサイズ679×960の縦か横となる。
(注 後ろ2枚の図は、3・4枚目と同じ。印刷用としてサイズ合せのため、縦に回転している)

背景の地図は、測量法第43条の規定により、長崎市長の承認を得て、平成18年度地形図(縮尺1/10000)を複製した。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第1038号 平成24年2月29日

長崎名勝図絵の風景  41  祝 島(俊寛僧都の墓)

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長崎名勝図絵の風景  41  祝 島(俊寛僧都の墓)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
最後の「俊寛僧都物語」は、伊王島町ふるさと資料室の展示パネルから(ズーム拡大)。
本シリーズ「長崎名勝図絵の風景」は、これで一応完とする。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

244  祝 島  (文献叢書 220〜222頁  所在地 長崎市伊王島町)

深堀村の西にあり、硫黄島ともいう。香焼島と列んでいる。島の広さ三千二百余丈。民家一百余。南の方に瀑嶼(たきじま)がある。岩の間から滝が落ちている。広さ四百二十丈ばかり。祝島とは三十丈程しか離れていないので、遠くから見ると、続いているようである。その間の部分を大中狭門と呼ぶ。唐船が長崎に入港する時、ここを通ることがある。長崎君舒が著わした長崎図志によると、もとこの島の北を松浦潟、南の浜を薩摩潟といったのは、昔遣唐船がここを通ることが多かったために、こういう名が付いた。今も長崎に入津の船は、皆この島の水路を通るのである。

俊寛僧都もここに流され、のち深江を経て帰ったという。古本平家物語に、治承元年(1177)平相国の命令で、丹波少将成経、平判官廉頼、僧都俊寛の三人が、肥前国硫黄ガ島に流され、翌二年安徳帝御生誕の大赦で、成経、廉頼の二人だけが赦免となり、俊寛一人が漏れたので、成経ら二人が憐れと思い、俊寛を伴って鹿背の庄まで行ったが、そこで俊寛が病死した。その墓が今もあると書いてある。
盛衰記の説も大体同じである。ところが今の本は誤って、薩摩の硫黄島に流されたように書いてある。これは硫黄島の名が混同したものであろう。…

この島の東、深堀という所に、有王塚というのがあるというのも、妙なことである。又肥前領地の境に、鹿背という地があり、彼杵に近い。ここにある法性寺は俊寛開基という。この地は資盛の領地で、苔むした石塔、俊寛の遺物、資盛の書記等がこの寺にある。いずれにしても俊寛は、島では死んでいないのではないか。すべて名所旧跡には異説があるもので、薩摩と肥前のどちらが本物か、さだかではない。ということである。島の上に長福寺という小寺があり、堂前に俊寛の墓と称する石碑がある。蔦蔓が附き、文字もよく読めないが、大変古いもののようである。宝暦六年
(1756)俳諧歌人勝木沈山が自費で建てた石碑がある。…

長崎名勝図絵の風景  40  半 片 山(福 田 洞)

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長崎名勝図絵の風景  40  半 片 山(福 田 洞)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
福田洞は古写真考の次記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/1933

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

240  半 片 山  (文献叢書 217〜219頁  所在地 長崎市福田本町)

福田洞 長崎の西南三里余、大村領との境、福田浦の前にある。山が半分削れたように、絶壁となっている。山頂に一株の松があって、風致をなす。下に洞穴が五つある。皆南に向いているが、一つだけ北に向いているのがあって、これは小舟で這入れる位の広さがある。洞門のところで、海水がはっきり区切られたようになっていて、中は青々と澄んでおり、塵一本も浮いてなく、又濁ることもない。洞の奥は深くて、誰も極めた者がいない。時津の近くまで達しているとか、龍が棲んでいるとかいわれている。一度大村の人が、探検のために炬火を持って、中に這入ったが、暫く行くとどこからか風が吹いて、火を消された。それで火をつけて更に進み、数十歩行くと、又もや風のために吹消され、これを三四回繰返えして、まだ奥に達しないので、遂に断念したそうである。この洞の中で、時に鳴動があり、その声が遠く長崎の街まで聞こえる。鳴動すれば三日を出でずに、風雨があると信じられている。だから漁師はそれで天候を判断した。とに角一つの変った名所である。

長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2012年4月

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長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2012年4月

2012年4月8日(日)快晴。長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備。参加9人。みさき道歩会の例会。パソコン修理のため報告が遅れた。
三和行政センター前広場9:30発ーどんどん坂ー為石大川橋10:52ー堀首ー川原住吉神社
11:21ー宮崎橋11:38−三和記念公園(11:50着 昼食 12:20発)ー脇岬村路標石地点
12:35−石橋跡13:45−川原木場手前15:28−海星高グランドー川原公園前バス停
16:29着(徒歩距離 約9Km)

長崎半島東回りみさき道も考えられる。三和公民館展示ホール奥の中庭に1本の標石が残る。「東 脇岬」「南 明治三十二年十一月建」「西 高濱」「北 川原村字池田」と刻む。近隣の集落では年中行事で観音参りが行われていた。主にその道であり、昔から集落を結ぶ道はあった。もともと建っていた場所は、川原小池上の脇岬村路と高浜村路との分岐である。 
詳細なルート図は後日、載せるが、今回はこの脇岬村路の検証。踏査と草刈り整備をまず手始めに栄上から川原木場まで行なった。

栄上からすぐ大川を渡り対岸を行く。淵の絶壁はどんどん坂で高巻き。三和中・サントピア前を通り、為石の大川橋へ。ここは木橋か渡し舟が考えられる。堀首を越し川原本村へ。住吉神社はルートではないが、大クス見学のため立ち寄った。蛭子崎は丘を越し、宮崎橋に出る。宮崎川はモータレ川という。橋下の祠の所へ飛び石で渡ったようだ。
宮崎の町中から現在の三和記念公園まで行く。川原小池を埋立てたのが公園である。東屋で昼食。

アパート側から高台へ登る。この上の分岐に「東 脇岬」「西 高濱」の標石は建っていた。川原大池にそそぐ池田川の鉄工所まで下る。しばらく行って右奥の杉林に入ると、洪水で流された石橋跡がある。これから県道へ上がり、山中へ入る。シダが密生し、ルート探しと草刈りに苦労した。川原木場手前まで来て3時半。きょうの踏査ははここで打ち止め。
海星高グランドの方へ寄り道して回ると、ゆうゆうランドの馬の散歩と出会った。川原公園前バス停で解散。
宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29488439.html

伊王島町ふるさと資料室  長崎市伊王島町

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伊王島町ふるさと資料室  長崎市伊王島町

長崎市伊王島行政センターの右に伊王島開発総合センターがある。「伊王島町ふるさと資料室」は、この建物の2階。同町の貴重な資料を展示しているが、あまり広報されていないので、展示内容を写真により紹介する。
HP上で見ると、次の記事しか見当たらない。長崎さるくコースに入っていない。行政センターの所管で、土・日曜など休館?

2001年4月9日、長崎県西彼伊王島町が整備を進めていた「町ふるさと資料室」が同町開発総合センター2階にオープンした。1941年から約30年間栄えた伊王島炭鉱の歴史をまとめ、現存する炭鉱に関する資料や島の生活道具の散逸防止と継承を目的に、同センター図書室を改修した。

長崎名勝図絵の風景  39  阿蘭陀船難船(難船挽揚図)

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長崎名勝図絵の風景  39  阿蘭陀船難船(難船挽揚図)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
前の記事「木鉢浦図」も参照。  https://misakimichi.com/archives/3178

2007学さるくの江越弘人先生作成資料による説明は次のとおり。
4 木鉢浦
奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年
(1801)にアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。
なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていた。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

234  阿蘭陀船難船  (文献叢書 210〜215頁  所在地 長崎市木鉢町)

寛永10年(1798)の冬の事であった。その年の夏、例年のように入津、商売も無事に済ませ、出帆しょうとしていたところ、10月17日夜、急に西北の風が烈しくなり、高鉾島の瀬方に吹付けられ、帆柱は折れ、船底も破れたとの報告があったので、奉行所から役人が多数出向き、木鉢浦に挽き入れたが、遂に沈没してしまった。それで浜辺に仮小屋を建て、乗組の阿蘭陀人を収容すると共に、荷物や銅等を、水泳の達者な者に潜り取らせ、更に沈船の浮上について、考えのある者は申出るよう、触れを出された。それでいろいろ工夫をする者もあったが、何分大きな船の沈没であるから、容易に浮上させることもできず、空しく冬も過ぎた。ところが周防国都濃郡串ガ浜の船頭で、村井喜右衛門という者がいて、何か考えがあるらしいということを、阿蘭陀人がどこからか聞いてきて、官の許可を得、この者にさせることとなった。喜右衛門は翌11年の正月16日から着手、29日には浮船にして、2月3日に木鉢浦の仮屋前の浜辺へ引揚げた。阿蘭陀人の喜びは一方ならず、以後修理も進み、帆柱も立って、5月25日沖に向って走り去ったが、洋中で再び逆風に逢い、難船したので、又もや乗り戻して6月16日入津し、再度修復して9月20日、その年入津の船と一緒に帰国した。

長崎名勝図絵の風景  38  阿蘭陀船難船(木鉢浦図)

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長崎名勝図絵の風景  38  阿蘭陀船難船(木鉢浦図)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
次の記事「難船挽揚之図」も参照。 https://misakimichi.com/archives/3179

2007学さるくの江越弘人先生作成資料による説明は次のとおり。
4 木鉢浦
奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年
(1801)にアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。
なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていた。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

234  阿蘭陀船難船  (文献叢書 210〜215頁  所在地 長崎市木鉢町)

寛永10年(1798)の冬の事であった。その年の夏、例年のように入津、商売も無事に済ませ、出帆しょうとしていたところ、10月17日夜、急に西北の風が烈しくなり、高鉾島の瀬方に吹付けられ、帆柱は折れ、船底も破れたとの報告があったので、奉行所から役人が多数出向き、木鉢浦に挽き入れたが、遂に沈没してしまった。それで浜辺に仮小屋を建て、乗組の阿蘭陀人を収容すると共に、荷物や銅等を、水泳の達者な者に潜り取らせ、更に沈船の浮上について、考えのある者は申出るよう、触れを出された。それでいろいろ工夫をする者もあったが、何分大きな船の沈没であるから、容易に浮上させることもできず、空しく冬も過ぎた。ところが周防国都濃郡串ガ浜の船頭で、村井喜右衛門という者がいて、何か考えがあるらしいということを、阿蘭陀人がどこからか聞いてきて、官の許可を得、この者にさせることとなった。喜右衛門は翌11年の正月16日から着手、29日には浮船にして、2月3日に木鉢浦の仮屋前の浜辺へ引揚げた。阿蘭陀人の喜びは一方ならず、以後修理も進み、帆柱も立って、5月25日沖に向って走り去ったが、洋中で再び逆風に逢い、難船したので、又もや乗り戻して6月16日入津し、再度修復して9月20日、その年入津の船と一緒に帰国した。

長崎名勝図絵の風景  37  神崎大明神(神崎神社)

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長崎名勝図絵の風景  37  神崎大明神(神崎神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

230  神崎大明神  (文献叢書 204〜208頁  所在地 長崎市西泊町)

天門峯の神埼にある。由緒は古い神社であるが、永年荒廃していたのを、正保4年(1647)長崎の内田治郎助宗貞という者が、旧記を調べ旧址を尋ねて、船魂猿田彦大神、住吉大明神を祀る小祠をここに建てた。当社の縁起を調べてみると、神功皇后が新羅征伐のために、… そしてこの深江浦 長崎の古名 に来られ、… 神功皇后の船路の、いわれある跡どころも、歳月の経過と、今一つは南蛮人横行のために、跡型もなくなり、神の名さえ忘れ去られたが、… こうして正保4年(1647)の夏、亜媽港(あまかわ)の黒船の侵入があったので、近国諸藩から出兵し、大綱小綱竹木を集めて、女神と雄神の間に船橋を渡した。内田宗貞もこの仕事に参加したが、…白狐伝説が続く… 宗貞はかねて、古い社祠のあったという場所、聞き伝えていたので、早速幣帛を捧げてお祭りをし、その年の秋八月十一日に社殿を造立した。これがこの神崎社の再興である。… 宗貞の三代内田寛求が、元禄11年(1698)京都吉田家の免許を得て、唯一神道の神社となった。
発 句  神埼や波の卯の花白幣   長崎奉行牛込忠左衛門藤原勝登

長崎名勝図絵の風景  36  西泊御番所・戸町御番所

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長崎名勝図絵の風景  36  西泊御番所・戸町御番所

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
戸町番所跡は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/5437

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

221  西泊御番所  (文献叢書 197〜203頁  所在地 長崎市西泊町)

長崎の西南20町ばかり、湊の右手の西泊郷にある。寛永18年(1641)筑前城主松平右衛門佐忠光が、上意を蒙って建てられた。外周220間、坪数約3900坪。山の地形を利用して、堡をなしている。

222  戸町御番所  (文献叢書 197〜202頁  所在地 長崎市国分町)

長崎の南20余町、湊の左手戸町浦にある。寛永18年(1641)幕命により、肥前城主*鍋島忠直が建てられた。〔*長崎実録大成は、西泊戸町両番所共、筑前侯が建てたとし、多くはこの説をとる。〕ここは西泊に対して、東泊とも呼ぶ。東西両御番所が相対して、魚鱗鶴翼の陣のようである。白壁が星のように点々と連らなり、鎗刀は雲のように集まり、その他の兵器、船具、火砲等もあって異船の侵攻に備えている。筑前肥前の二藩が、隔年交替でこれに当り、兵士数百人が詰める。俗に千人番所という。
東泊というのは、小菅浦の南、湊の出口で、西泊と相対する。戸町村に民家五六十戸がある。漁家が芦葦の中に網を干している。静かなたたづまいも又、一景である。熊山(チヂヤマともいう)に発する川を戸町川といい、ここで海に注ぐ。附近は温石(オンジヤク)を産する。…