長崎名勝図絵の風景 41 祝 島(俊寛僧都の墓)
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
最後の「俊寛僧都物語」は、伊王島町ふるさと資料室の展示パネルから(ズーム拡大)。
本シリーズ「長崎名勝図絵の風景」は、これで一応完とする。
長崎名勝図絵 巻之三 西邊之部
244 祝 島 (文献叢書 220〜222頁 所在地 長崎市伊王島町)
深堀村の西にあり、硫黄島ともいう。香焼島と列んでいる。島の広さ三千二百余丈。民家一百余。南の方に瀑嶼(たきじま)がある。岩の間から滝が落ちている。広さ四百二十丈ばかり。祝島とは三十丈程しか離れていないので、遠くから見ると、続いているようである。その間の部分を大中狭門と呼ぶ。唐船が長崎に入港する時、ここを通ることがある。長崎君舒が著わした長崎図志によると、もとこの島の北を松浦潟、南の浜を薩摩潟といったのは、昔遣唐船がここを通ることが多かったために、こういう名が付いた。今も長崎に入津の船は、皆この島の水路を通るのである。
俊寛僧都もここに流され、のち深江を経て帰ったという。古本平家物語に、治承元年(1177)平相国の命令で、丹波少将成経、平判官廉頼、僧都俊寛の三人が、肥前国硫黄ガ島に流され、翌二年安徳帝御生誕の大赦で、成経、廉頼の二人だけが赦免となり、俊寛一人が漏れたので、成経ら二人が憐れと思い、俊寛を伴って鹿背の庄まで行ったが、そこで俊寛が病死した。その墓が今もあると書いてある。
盛衰記の説も大体同じである。ところが今の本は誤って、薩摩の硫黄島に流されたように書いてある。これは硫黄島の名が混同したものであろう。…
この島の東、深堀という所に、有王塚というのがあるというのも、妙なことである。又肥前領地の境に、鹿背という地があり、彼杵に近い。ここにある法性寺は俊寛開基という。この地は資盛の領地で、苔むした石塔、俊寛の遺物、資盛の書記等がこの寺にある。いずれにしても俊寛は、島では死んでいないのではないか。すべて名所旧跡には異説があるもので、薩摩と肥前のどちらが本物か、さだかではない。ということである。島の上に長福寺という小寺があり、堂前に俊寛の墓と称する石碑がある。蔦蔓が附き、文字もよく読めないが、大変古いもののようである。宝暦六年
(1756)俳諧歌人勝木沈山が自費で建てた石碑がある。…