長崎名勝図絵の風景 38 阿蘭陀船難船(木鉢浦図)
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
次の記事「難船挽揚之図」も参照。 https://misakimichi.com/archives/3179
2007学さるくの江越弘人先生作成資料による説明は次のとおり。
4 木鉢浦
奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年
(1801)にアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。
なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていた。
長崎名勝図絵 巻之三 西邊之部
234 阿蘭陀船難船 (文献叢書 210〜215頁 所在地 長崎市木鉢町)
寛永10年(1798)の冬の事であった。その年の夏、例年のように入津、商売も無事に済ませ、出帆しょうとしていたところ、10月17日夜、急に西北の風が烈しくなり、高鉾島の瀬方に吹付けられ、帆柱は折れ、船底も破れたとの報告があったので、奉行所から役人が多数出向き、木鉢浦に挽き入れたが、遂に沈没してしまった。それで浜辺に仮小屋を建て、乗組の阿蘭陀人を収容すると共に、荷物や銅等を、水泳の達者な者に潜り取らせ、更に沈船の浮上について、考えのある者は申出るよう、触れを出された。それでいろいろ工夫をする者もあったが、何分大きな船の沈没であるから、容易に浮上させることもできず、空しく冬も過ぎた。ところが周防国都濃郡串ガ浜の船頭で、村井喜右衛門という者がいて、何か考えがあるらしいということを、阿蘭陀人がどこからか聞いてきて、官の許可を得、この者にさせることとなった。喜右衛門は翌11年の正月16日から着手、29日には浮船にして、2月3日に木鉢浦の仮屋前の浜辺へ引揚げた。阿蘭陀人の喜びは一方ならず、以後修理も進み、帆柱も立って、5月25日沖に向って走り去ったが、洋中で再び逆風に逢い、難船したので、又もや乗り戻して6月16日入津し、再度修復して9月20日、その年入津の船と一緒に帰国した。