長崎名勝図絵の風景  37  神崎大明神(神崎神社)

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長崎名勝図絵の風景  37  神崎大明神(神崎神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

230  神崎大明神  (文献叢書 204〜208頁  所在地 長崎市西泊町)

天門峯の神埼にある。由緒は古い神社であるが、永年荒廃していたのを、正保4年(1647)長崎の内田治郎助宗貞という者が、旧記を調べ旧址を尋ねて、船魂猿田彦大神、住吉大明神を祀る小祠をここに建てた。当社の縁起を調べてみると、神功皇后が新羅征伐のために、… そしてこの深江浦 長崎の古名 に来られ、… 神功皇后の船路の、いわれある跡どころも、歳月の経過と、今一つは南蛮人横行のために、跡型もなくなり、神の名さえ忘れ去られたが、… こうして正保4年(1647)の夏、亜媽港(あまかわ)の黒船の侵入があったので、近国諸藩から出兵し、大綱小綱竹木を集めて、女神と雄神の間に船橋を渡した。内田宗貞もこの仕事に参加したが、…白狐伝説が続く… 宗貞はかねて、古い社祠のあったという場所、聞き伝えていたので、早速幣帛を捧げてお祭りをし、その年の秋八月十一日に社殿を造立した。これがこの神崎社の再興である。… 宗貞の三代内田寛求が、元禄11年(1698)京都吉田家の免許を得て、唯一神道の神社となった。
発 句  神埼や波の卯の花白幣   長崎奉行牛込忠左衛門藤原勝登