長崎名勝図絵の風景 36 西泊御番所・戸町御番所
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
戸町番所跡は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/5437
長崎名勝図絵 巻之三 西邊之部
221 西泊御番所 (文献叢書 197〜203頁 所在地 長崎市西泊町)
長崎の西南20町ばかり、湊の右手の西泊郷にある。寛永18年(1641)筑前城主松平右衛門佐忠光が、上意を蒙って建てられた。外周220間、坪数約3900坪。山の地形を利用して、堡をなしている。
222 戸町御番所 (文献叢書 197〜202頁 所在地 長崎市国分町)
長崎の南20余町、湊の左手戸町浦にある。寛永18年(1641)幕命により、肥前城主*鍋島忠直が建てられた。〔*長崎実録大成は、西泊戸町両番所共、筑前侯が建てたとし、多くはこの説をとる。〕ここは西泊に対して、東泊とも呼ぶ。東西両御番所が相対して、魚鱗鶴翼の陣のようである。白壁が星のように点々と連らなり、鎗刀は雲のように集まり、その他の兵器、船具、火砲等もあって異船の侵攻に備えている。筑前肥前の二藩が、隔年交替でこれに当り、兵士数百人が詰める。俗に千人番所という。
東泊というのは、小菅浦の南、湊の出口で、西泊と相対する。戸町村に民家五六十戸がある。漁家が芦葦の中に網を干している。静かなたたづまいも又、一景である。熊山(チヂヤマともいう)に発する川を戸町川といい、ここで海に注ぐ。附近は温石(オンジヤク)を産する。…