長崎名勝図絵の風景  35  三 投 石(身投石)

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長崎名勝図絵の風景  35  三 投 石(身投石)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
この項は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1590

岩瀬道町に三菱重工長崎造船所本社ビルと、迎賓館占勝閣がある。この岬の先端に「三投石」(身投石)があったが、今はドックとなって跡をとどめない。三菱構内は立入禁止のため、現在の写真は正門前などと、船上から写している。
豪商伊藤小左衛門の抜荷が発覚し、一門親族とも処刑された。彼の寵愛を受けていた丸山花月の遊女定家は、その悲しみから岬から身を投げた。後に、その岬を「身投岩」と呼ぶようになった。悟真寺には、二人を葬ったといわれる比翼塚が残っている。(「長船よもやま話」)

HP「広助さんの丸山歴史散歩」では次のとおり。
○金島枯骨合葬之処(こがねじま-ここつ-がっそうのところ)
/比翼塚(ひよくづか)【悟眞寺境内】
言い伝えによると、博多出身の豪商:伊藤小左衛門は五島町に屋敷を構えたいへんな贅を尽くした生活を送っていましたが、よく思わない者から密貿易の罪に問われ他の28人と共に磔刑により死罪となります。そして小左衛門を慕っていた丸山の遊女:定家も後を追って身を投げます。その後、たまたま稲佐瀬ノ脇にあった金島(コガネジマ)で穴を掘っていたところ善之助という男が人骨を拾い、その夜の夢枕で怪しげな男女がもう一つあると告げられたため、あわてて掘ってみるとやはり骨を見つけます。善之助は早速、悟眞寺の境内に丁重に葬ったといい、現在、悟眞寺の境内には「金島枯骨合葬之処」という碑と、そのことを刻した「金島枯骨誌」が建っています。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

219  三 投 石  (文献叢書 196〜201頁  所在地 長崎市岩瀬道町)

長崎の西、石背洞にある。高い岩、低い岩が、崖に岸に、或いは重なり、或いは入り交って、変ったながめである。剣戟とか折石とも称するが、普通は三投石、転じて身投石と呼んでいる。昔一婦人がここから身を投げて死んだという 湊内第一の景勝である。夏ともなると、屋形船を浮かべて納涼する者が多いが、この近くに来ると、拳を打ったり、酒さかなに唄三味線と、賑やかなことである。この岩の下、水の深いところに、大亀が棲んでいて、時たも浮上って頭を出すが、その首は馬の頭のようで、今でも見た者がいるという。