月別アーカイブ: 2012年4月

長崎名勝図絵の風景  35  三 投 石(身投石)

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長崎名勝図絵の風景  35  三 投 石(身投石)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
この項は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1590

岩瀬道町に三菱重工長崎造船所本社ビルと、迎賓館占勝閣がある。この岬の先端に「三投石」(身投石)があったが、今はドックとなって跡をとどめない。三菱構内は立入禁止のため、現在の写真は正門前などと、船上から写している。
豪商伊藤小左衛門の抜荷が発覚し、一門親族とも処刑された。彼の寵愛を受けていた丸山花月の遊女定家は、その悲しみから岬から身を投げた。後に、その岬を「身投岩」と呼ぶようになった。悟真寺には、二人を葬ったといわれる比翼塚が残っている。(「長船よもやま話」)

HP「広助さんの丸山歴史散歩」では次のとおり。
○金島枯骨合葬之処(こがねじま-ここつ-がっそうのところ)
/比翼塚(ひよくづか)【悟眞寺境内】
言い伝えによると、博多出身の豪商:伊藤小左衛門は五島町に屋敷を構えたいへんな贅を尽くした生活を送っていましたが、よく思わない者から密貿易の罪に問われ他の28人と共に磔刑により死罪となります。そして小左衛門を慕っていた丸山の遊女:定家も後を追って身を投げます。その後、たまたま稲佐瀬ノ脇にあった金島(コガネジマ)で穴を掘っていたところ善之助という男が人骨を拾い、その夜の夢枕で怪しげな男女がもう一つあると告げられたため、あわてて掘ってみるとやはり骨を見つけます。善之助は早速、悟眞寺の境内に丁重に葬ったといい、現在、悟眞寺の境内には「金島枯骨合葬之処」という碑と、そのことを刻した「金島枯骨誌」が建っています。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

219  三 投 石  (文献叢書 196〜201頁  所在地 長崎市岩瀬道町)

長崎の西、石背洞にある。高い岩、低い岩が、崖に岸に、或いは重なり、或いは入り交って、変ったながめである。剣戟とか折石とも称するが、普通は三投石、転じて身投石と呼んでいる。昔一婦人がここから身を投げて死んだという 湊内第一の景勝である。夏ともなると、屋形船を浮かべて納涼する者が多いが、この近くに来ると、拳を打ったり、酒さかなに唄三味線と、賑やかなことである。この岩の下、水の深いところに、大亀が棲んでいて、時たも浮上って頭を出すが、その首は馬の頭のようで、今でも見た者がいるという。

長崎名勝図絵の風景  34  唐船の千燈籠

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長崎名勝図絵の風景  34  唐船の千燈籠

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

名勝図絵の右下に描かれているのは、新地蔵所の広馬場側となる南門の石橋である。現在の大徳寺公園から見た、長崎港内に浮ぶ唐船の千燈籠の風景であろう。
この項は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3154
南門の石橋は、新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社1987年発行110頁の拡大。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

218  唐船の千燈籠  (文献叢書 196〜199頁  所在地 長崎市新地町ほか)

長崎の湊の美観の一つである。浮船があれば、これをする。唐船が入港して、荷揚げを終れば、空船となり、梅香崎に引いて行って、繋いで置く。入港してまがなく、荷揚げが終らないか、或いは交易が終って、代り荷を積み、梅香崎を離れて、港中で出航指令を待っている船。これを浮船という。その日は三月七月九月の廿三日を当日とし、廿二日から始める。これは天后祭の日でもある。故に唐三箇寺ではこの日、臨番で焔口供 … をする。船中には、三つの帆柱に掛渡した帆綱に、無数の燈籠をすき間なく吊るし、点灯するので、昼のように明るくなり、海面に燈影を映じて、誠に美しい景観である。

長崎名勝図絵の風景  33  恵美酒社(恵美須神社)

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長崎名勝図絵の風景  33  恵美酒社(恵美須神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

215  釛山恵美酒社  (文献叢書 193〜195頁  所在地 長崎市飽の浦町)

稲佐の瀬の脇村にある。昔は木鉢浦にあったという。今の恵美酒町で、或る人が、その家庭内に祭っていたものが起こりで、町名もそのために恵美酒町となったといわれる。いつの頃か、小柳五郎左衛門という者が、官に願って、瀬の脇 この村の前に大きな瀬が二つあったので、瀬の脇村という の岸を穿ち、小祠を設けて祭っていた。享保元年(1716)周防国徳山の柳木内膳という神官が、これを譲り受けて、五ヶ所 京、江戸、大阪、堺、長崎 の商人等の寄進を受けて、海岸を削り、海を埋立てて、立派な神社を建て、吉田家〔吉田神道の宗家〕の免許を得て、諏方社の末社となった。本社、渡殿、幣社、拝殿等があり、稲荷社、龍神社、人磨社の三つの末社がある。

長崎名勝図絵の風景  32  悟 真 寺

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長崎名勝図絵の風景  32  悟 真 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
淵神社の境内は、稲佐山山頂と結ぶ長崎ロープウェイの発着駅となっている。福山雅治は、ここの宝珠幼稚園に通った。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

212  終南山光明院悟真寺  (文献叢書 190〜193頁  所在地 長崎市曙町)

稲佐浦にある。浄土宗 筑後善導寺末寺。もとは巌屋山の支院であったが、年久しく荒廃した。…筑後国善導寺に聖誉玄故という僧がいたが、…慶長元年(1596)の頃長崎に来て、稲佐山麓の岩穴…に隠れ、邪教徒の圧迫にも屈せず、附近の住民の教化に努めたので、これに随う者も次第に多くなり、ここに一庵を結んだ。慶長3年(1596)の頃、…本山に願い、…今の寺号の免許があった。切支丹横行の時代における、仏法再興の最初の寺である。その後慶長7年
(1602)…二人の唐人が来朝したが、玄故が熱心な僧侶なので、深く帰依し、この二人が檀首〔檀家の筆頭〕となって、唐人のための菩提寺とした。然し墓地がないので、代官末次平蔵を通じて官に願い、江戸幕府の許可を以って、数百畝の地を賜わった。…以後唐商の死者はここに埋葬したが、のち唐三箇寺ができてからは、それぞれの唐寺に祭るようになった。以上が当寺開基の始末である。

長崎の西空の夕日  12− 3

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長崎の西空の夕日  12− 3

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1      2012年 3月 1日の18時14分頃
写真  2      2012年 3月 8日の18時18分頃
写真  3〜 4  2012年 3月 9日の18時14分頃
写真  5〜 6  2012年 3月12日の18時30分頃
写真  7〜 8  2012年 3月14日の18時17分頃
写真  9〜12  2012年 3月24日の18時39分頃
写真 13      2012年 3月26日の18時39分頃
写真 14〜15  2012年 3月27日の18時37分頃