長崎名勝図絵の風景 32 悟 真 寺
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
淵神社の境内は、稲佐山山頂と結ぶ長崎ロープウェイの発着駅となっている。福山雅治は、ここの宝珠幼稚園に通った。
長崎名勝図絵 巻之三 西邊之部
212 終南山光明院悟真寺 (文献叢書 190〜193頁 所在地 長崎市曙町)
稲佐浦にある。浄土宗 筑後善導寺末寺。もとは巌屋山の支院であったが、年久しく荒廃した。…筑後国善導寺に聖誉玄故という僧がいたが、…慶長元年(1596)の頃長崎に来て、稲佐山麓の岩穴…に隠れ、邪教徒の圧迫にも屈せず、附近の住民の教化に努めたので、これに随う者も次第に多くなり、ここに一庵を結んだ。慶長3年(1596)の頃、…本山に願い、…今の寺号の免許があった。切支丹横行の時代における、仏法再興の最初の寺である。その後慶長7年
(1602)…二人の唐人が来朝したが、玄故が熱心な僧侶なので、深く帰依し、この二人が檀首〔檀家の筆頭〕となって、唐人のための菩提寺とした。然し墓地がないので、代官末次平蔵を通じて官に願い、江戸幕府の許可を以って、数百畝の地を賜わった。…以後唐商の死者はここに埋葬したが、のち唐三箇寺ができてからは、それぞれの唐寺に祭るようになった。以上が当寺開基の始末である。