長崎名勝図絵の風景  33  恵美酒社(恵美須神社)

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長崎名勝図絵の風景  33  恵美酒社(恵美須神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

215  釛山恵美酒社  (文献叢書 193〜195頁  所在地 長崎市飽の浦町)

稲佐の瀬の脇村にある。昔は木鉢浦にあったという。今の恵美酒町で、或る人が、その家庭内に祭っていたものが起こりで、町名もそのために恵美酒町となったといわれる。いつの頃か、小柳五郎左衛門という者が、官に願って、瀬の脇 この村の前に大きな瀬が二つあったので、瀬の脇村という の岸を穿ち、小祠を設けて祭っていた。享保元年(1716)周防国徳山の柳木内膳という神官が、これを譲り受けて、五ヶ所 京、江戸、大阪、堺、長崎 の商人等の寄進を受けて、海岸を削り、海を埋立てて、立派な神社を建て、吉田家〔吉田神道の宗家〕の免許を得て、諏方社の末社となった。本社、渡殿、幣社、拝殿等があり、稲荷社、龍神社、人磨社の三つの末社がある。