長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口ほか (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口ほか (再掲)

朝日新聞長崎地域版きょう2010年(平成22年)5月8日付”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「1866年2月の街と港 龍馬とお龍見た景色」。解説は、
「福済寺裏山の立山中腹から、ベアトが撮影した幕末長崎の街と港です。…1866年2月を示すベアトの書き込みもあります。撮影時期が明確なため、幕末長崎の街並みのベンチマーク(水準点)となる写真です…」

この写真を取り上げたのは、撮影場所がきょうの新聞記事も「福済寺裏山の立山中腹から」となって、必ずしも明確ではない。どこも「龍馬が見た景色」となる傾向もどうかと思われる。
はたして具体的な撮影場所はどこだろうか。
データベースでは、目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の作品である。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1575
https://misakimichi.com/archives/1584

撮影場所は「立山から」に間違いないが、長崎大学が「幕末長崎の街並みのベンチマーク(水準点)となる重要な写真」としながら、具体的な撮影地点をはっきり検証されていないため、いろいろな意見が出ている。
2009年元旦紙面の朝日新聞や、2003年の長崎市写真団体合同展実行委員会の推定地点とはならないだろう。私が探した撮影場所は、立山バス停の「ホテル長崎」左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりである。

要は、街や港を俯瞰した写真の高度感と、奥に写る島や山の稜線。女神大橋が架かって見えにくくなったが、神崎鼻先の香焼島の姿、深堀城山と大久保山、鍋冠山と八郎岳の稜線の重なり具合が、古写真どおりとなるかが、ポイントだろう。
この古写真とまったく同じと思われる撮影場所から、長崎港と街を写している作品がある。2枚目の目録番号:2882「長崎立山からの長崎港(1)」。
データベースでは撮影者未詳となっているが、上野彦馬の撮影である。

馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年7月初版の60頁に、48「福済寺裏山からの長崎港」として掲載されている。
HP上では、扇精光株式会社制作「上野彦馬フォトギャラリー」という珍しいウェブがある。「写真の開祖」上野彦馬による幕末の長崎の様子。クリックすると過去から現在へ移り変わりをムービーで見ることができる。 http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html

よく知られる長崎の5枚の古写真のうち、2枚目に「長崎港」として目録番号:2882「長崎立山からの長崎港」の作品が表れる。出典は「写真の開祖 上野彦馬 −写真に見る幕末・明治−」発行所:産業能率短期大学出版部 発行者:上野一朗氏。
昔:長崎港、明治21年(1888)撮影
今:平成11年2月(1999)立山2丁目長崎ホテル横の空き地から撮影

扇精光が11年前1999年、綿密に調査推定した地点は「立山2丁目長崎ホテル横の空き地から」である。私の地点「ホテル長崎」左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりとまったく近くとなる。ホテル横の空き地に墓地が造成され、その上部に老人ホームが新しく建っている。

「立山」とは普通、バス終点付近を言い、このあたりが山頂だろう。しがって目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の撮影場所は、「福済寺裏山の立山中腹から」とまぎらわしくしないで、目録番号:2882「長崎立山からの長崎港」と同じく、「立山から」撮影の説明で良いのではないか。