長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 243頁 ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港

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 長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 243頁 ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
243頁  ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港
〔図版目録〕
「長崎 町と港」 (図録『Ansichten』第4冊、図版25) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。

〔図版解説〕 25 長崎 町と港
この図を描いた地点は、図録 23 のそれよりずっと低い所である。町の大部分が見渡されるが、それでもなお図の右手の山腹の後ろにはいくらか町が隠れている。そこでは谷が口をあけており、その平坦な地は、そこを流れる川によって造られた沖積地であるらしい。

— 右手には町の一部が見える。奥の方の突き出た所は出島である。その背後、小さな入江を隔てた向い側に、外国人の新居留地が見える。この町の東と南から流れる二つの小川は、一部が運河に入り、それが湾のこの部分に注ぎ込んでいる。
— この湾の右岸(図に向かって右側)に樹木の生えた岬があるが、その後ろにロシア人の居留地稲佐がある。またそれに続く前山に隠れて、肥前侯の造船所がある。
— プロイセン軍艦アルコーナ号とテーティス号は、この湾のほぼ中央に停泊した。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

239頁の「ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港」はフォトリトグラフ。「この図を描いた地点は、図録 
23 のそれよりずっと低い所である。町の大部分が見渡される」と解説している。
すなわち、前掲した「図録 23」を描いた金比羅山の前山「天狗山」から、ずっと南西へ下る。「立山」という景勝地から描かれた作品であろう。現在のJR長崎駅から見て真上の山である。

長崎県営バスの立山終点から、ホテル長崎左側の墓地の道へ下る。すぐ近くで一番古い「西勝寺の無縁諸霊墓」がある所があり、港口の山の稜線重なりを考えると、このあたりから描かれたと思われる。現在の画像は、ズーム拡大。
この「図録 25」には、手前左に寺院らしい屋根が描かれている。聖福寺など考えられるが、検証が必要。
F.ベアトや上野彦馬も、立山から同じような景色を撮影している古写真がある。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2328